必しも「新詩社」にばかりあつたことではない。斎藤茂吉氏は「赤光《しやくくわう》」の中に「死に給ふ母」、「おひろ」等の連作を発表した。のみならず又十何年か前に石川啄木の残して行つた仕事を――或は所謂《いはゆる》「生活派」の歌を今もなほ着々と完成してゐる。元来斎藤茂吉氏の仕事ほど、多岐多端に渡つてゐるものはない。同氏の歌集は一首ごとに倭琴《わごん》やセロや三味線や工場の汽笛を鳴り渡らせてゐる。(僕の言ふのは「一首ごと」である。「一首の中に」と言ふのではない。)若《も》しこのまま書きつづけるとすれば、僕は或はいつの間にか斎藤茂吉論に移つてしまふであらう。しかしそれは便宜上、歯止めをかけて置かなければならぬ。僕はまだこの次手に書きたいことを持ち合せてゐる。が、兎に角斎藤茂吉氏ほど、仕事の上に慾の多い歌人は前人の中にも少かつたであらう。

     九  両大家の作品

 勿論あらゆる作品はその作家の主観を離れることは出来ない。しかし仮に客観と云ふ便宜上の貼り札を用ひるとすれば、自然主義の作家たちの中でも最も客観的な作家は徳田秋声氏である。正宗白鳥氏はこの点では対蹠点《たいせきてん》に立つてゐる
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