りはしないであらう。しかしカルマはその為に少しも脅威を失つたのではない。カアネギイのエネルギイを生んだものはカアネギイの背負つて来たカルマである。僕等は皆僕等のカルマの為に頭を下げる外はないであらう。若し僕等に、――少くとも僕に「あきらめ」の天恵の下るとすれば、それは唯ここにだけある訣である。
僕等は皆多少の「生活者」である。従つて逞ましい「生活者」にはおのづから敬意を生ずるものである。即ち僕等の永遠の偶像は戦闘の神マルスに帰らざるを得ない。カアネギイは暫く問はず、ニイチエの「超人」も一皮|剥《は》いで見れば、実にこのマルスの転身だつた。ニイチエのセザアル・ボルヂアにも讃嘆の声を洩らしたのは偶然ではない。正宗白鳥氏は「光秀と紹巴《せうは》」の中に「生活者」中の「生活者」だつた光秀に紹巴を嘲《あざけ》らせてゐる。(かう云ふ正宗白鳥氏の「人生の従軍記者」と呼ばれるのは正に逆説的であると云はなければならぬ。)これは一光秀の嘲笑ではない。僕等は何も考へずにいつもかう云ふ嘲笑を放つてゐるのである。
僕等の悲劇は、――或は喜劇はこの「人生の従軍記者」にとどまり難いことに潜んでゐる。しかも僕等「生活者」のカルマを背負つてゐることに潜んでゐる。けれども芸術は人生ではない。ヴイヨンは彼の抒情詩を残す為に「長い敗北」の一生を必要とした。敗るる者をして敗れしめよ。彼は社会的習慣即ち道徳に背くかも知れない。或は又法律にも背くことであらう。況や社会的礼節には人一倍余計に背く筈である。それ等の約束に背いた罰は勿論彼自身に背負はなければならぬ。社会主義者バアナアド・シヨウは彼の「医者のデイレンマ」の中に不徳義な天才を救ふよりも平凡な医者を救ひ上げることにした。シヨウの態度は少くとも合理的であると言はなければならぬ。僕等は博物館の硝子戸《ガラスど》の中に剥製《はくせい》の鰐《わに》を見ることを愛してゐる。しかし一匹の鰐を救ふよりも一匹の驢馬を救ふことに全力を尽すのに不思議はない。動物愛護会も未だ嘗《かつて》猛獣毒蛇を愛護するほど寛大ではないのはこの為であらう。が、それは人生に於ける、言はば Home Rule の問題である。もう一度ヴイヨンを例に引けば、彼は第一流の犯罪人だつたものの、やはり第一流の抒情詩人だつた。
或女人は「わたしの一家に天才のないことは仕合せです」と言つた。しかもその「天才」と云ふ言葉は少しも皮肉な意味を持つてゐなかつた。僕も亦僕の一家に天才のないことに安んじてゐる。(勿論僕のかう云ふのは天才の属性に背徳性を数へてゐる訣でも何でもない。)田園や市井の人々には古今の天才たちよりも「生活者」の美徳を具へてゐるものも多いであらう。紅毛人は「人として」の名のもとに度《たび》たび古今の天才たちの中にも「生活者」の美徳を数へてゐる。が、僕はこの新らしい偶像崇拝も信用してゐない。「芸術家として」のヴイヨンは暫く問はず、「芸術家として」のストリントベリイは僕等の愛読に価してゐる。しかし「人として」のストリントベリイは、――恐らくは僕の尊敬する批評家XYZ君よりもはるかにつき合ひ悪《にく》いことであらう。従つて僕等の文芸上の問題はいつも畢《つひ》に「この人を見よ」ではない。寧ろ「これ等の作品を見よ」である。尤も「これ等の作品を見よ」と言つても、何世紀かは大河のやうにこれ等の作品を見る前に流れ去つてしまふであらう。しかもその又何世紀かは或は一本の藁《わら》のやうにこれ等の作品を忘却の中へずんずん押し流してしまふであらう。若し芸術至上主義を信じないとすれば、(かう云ふ信仰を持つてゐることは必ずしも食ふ為に書いてゐることと矛盾しない。少くとも食ふ為にばかり[#「にばかり」に傍点]書いてゐない限りは。)詩を作るのは古人も言つたやうに田を作るのに越したことはない。
僕は島崎藤村氏は勿論、正宗白鳥氏も「人生の従軍記者」でないことを信じてゐる。如何に両大家の才力を以てしても、古来一人もゐなかつたものに忽ちなつてしまふ道理はない。僕等は皆僕等の中に「光秀と紹巴《せうは》」とを持ち合せてゐる。少くとも僕は僕自身に関することには多少の紹巴になる代りに僕以外の人々に関することには多少の光秀になる傾向を持ち合せてゐる。従つて僕の中《うち》の光秀は必ずしも僕の中の紹巴を嘲笑しない。けれども幾分か嘲笑したい心もちのあることは確かである。
三十七 古典
「選ばれたる少数」とは必しも最高の美を見ることの出来る少数かどうかは疑はしい。寧ろ或作品に現れた或作者の心もちに触れることの出来る少数であらう。従つてどう云ふ作品も、――或は又どう云ふ作品の作者も「選ばれたる少数」以外に読者を得ることの出来るものではない。が、それは「選ばれざる多数の読者」を得ることと少しも矛盾して
前へ
次へ
全28ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング