ゐないのである。僕は「源氏物語」を褒《ほ》める大勢の人々に遭遇した。が、実際読んでゐるのは(理解し、享楽してゐるのを問はないにもせよ)僕と交つてゐる小説家の中《うち》ではたつた二人、――谷崎潤一郎氏と明石敏夫氏とばかりだつた。すると古典と呼ばれるのは或は五千万人中|滅多《めつた》に読まれない作品かも知れない。
しかし万葉集は源氏物語よりもはるかに大勢に読まれてゐる。それは必しも万葉集の源氏物語を抜いてゐる所以《ゆゑん》ではない。のみならず又両者の間に散文と韻文と云ふ掘割りの横はつてゐる所以でもない。単に万葉集中の作品は一つ一つとり離して見れば、源氏物語よりもずつと短いからである。元来東西の古典のうち、大勢の読者を持つてゐるものは決して長いものではない。少くとも如何に長いにもせよ、事実上短いものの寄せ集めばかりである。ポオは詩の上にこの事実に依つた彼の原則を主張した。それからビイアス(Ambrose Bierce)は散文の上にもやはりこの事実に依つた彼の原則を主張した。僕等東洋人はかう云ふ点では理智よりも知慧に導かれ、おのづから彼等の先駆をなしてゐる。が、生憎《あいにく》彼等のやうに誰もかう云ふ事実に依つた理智的建築を築いたものはなかつた。若しこの建築を試みるとすれば、長篇源氏物語さへ少くとも声価を失はない点では丁度善い材料を与へたであらうに。(しかし東西両洋の差はポオの詩論にも見えないことはない。彼は彼是《かれこれ》百行の詩を丁度善い長さに数へてゐる。十七音の発句などは勿論彼には「エピグラム的」の名のもとに排斥されることであらう。)
あらゆる詩人の虚栄心は言明すると否とを問はず、後代に残ることに執《しふ》してゐる。いや、「あらゆる詩人の虚栄心は」ではない。「彼等の詩を発表した、あらゆる詩人の虚栄心は」である。一行の詩も作らずに彼自身の詩人であることを知つてゐる人々もないことはない。(彼等は大小は暫く問はず、彼等の詩的生涯の上に最も平和だつた詩人たちである。)しかし性格や境遇の為に兎に角韻文か散文かの詩を作つてしまつた人々だけに詩人の名を与へるとすれば、あらゆる詩人たちの問題は恐らくは「何を書き加へたか」よりも「何を書き加へなかつた[#「なかつた」に傍点]か」にある訣であらう。それは勿論原稿料による詩人たちの生活に不便である。若し不便であるとすれば、――封建時代の詩人、石川|六樹園《ろくじゆゑん》は同時に又宿屋の主人だつた。僕等も売文と云ふことさへなければ、何か商売を見つけるかも知れない。僕等の経験や見聞《けんもん》もその為に或は広まるであらう。僕は時々売文だけでは活計を立てることの出来なかつた昔に多少の羨《うらやま》しさを感じてゐる。しかしかう云ふ現世も亦後代には古典を残してゐるであらう。勿論食ふ為に書いたものも古典にならないと限つた訣ではない。(若し或作家の姿勢として見れば、唯「食ふ為に書いてゐる」のは最も趣味の善い姿勢である。)唯アナトオル・フランスの言つたやうに後代へ飛んで行く為には身軽であることを条件としてゐる。すると古典と呼ばれるものは或はどう云ふ人々にも容易に読み通し易いものかも知れない。
三十八 通俗小説
所謂《いはゆる》通俗小説とは詩的性格を持つた人々の生活を比較的に俗に書いたものであり、所謂芸術小説とは必しも詩的性格を持つてゐない人々の生活を比較的詩的に書いたものである。両者の差別は誰でも言ふやうにはつきりしてゐないのに違ひない。けれども所謂通俗小説中の人々は確かに詩的性格の持ち主である。これは決して逆説ではない。若し逆説的であるとすれば、かう云ふ事実そのものの逆説的に出来てゐる為である。唯何びとも青年時代には多少彼の性格の上に詩的陰影を落し易い。しかしそれは年をとるのにつれ、次第に失はれてしまふのである。(抒情詩人はこの点では実に永遠の少年である。)従つて所謂通俗小説中の人々は老人ほど滑稽に陥り易い。(但しこの所謂通俗小説は探偵小説や大衆文芸を含んでゐない。)
追記。この文章を草し終つた後、僕は新潮座談会に出席した為に鶴見|祐輔《いうすけ》氏の啓発を受け、所謂通俗小説と紅毛人の所謂 Popular novel との差別を考へ出した。僕は所謂通俗小説論はポピユラア・ノヴエルには通用しない。ベンネツト(Arnold Bennett)は彼のポピユラア・ノヴエルに Fantasies の名を与へてゐる。それは事実上あり得ない世界を読者の為に広げて見せるからであらう。かう云ふ意味は必しも幻怪の気のあると云ふ意味ではない。唯人物なり事件なりの上に文芸的に[#「文芸的に」に傍点]真の刻印を打つてゐない世界と云ふ意味であらう。
三十九 独創
現世は明治大正の芸術上の総決算をしてゐる。な
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