発狂してしまつたであらう。が、彼等はその為に彼等の喜びや悲しみを一生懸命にうたひ上げた。――かうも決して考へられないことはない。
 若し殉教者《じゆんけうしや》や革命家の中に或種のマゾヒストを数へ得られるとすれば、詩人たちの中にもヒステリイの患者は必しも少くはないであらう。「書かずにはゐられぬ心もち」は、即ち樹下の穴の中へ「王様の耳は馬の耳」と叫んだ神話中の人物の心もちである。若しこの心もちがなかつたとしたならば、少くとも「痴人の告白」(ストリントベリイ)などは生まれなかつたのに違ひない。のみならずかう云ふヒステリイは往々一時代を風靡《ふうび》してゐる。「ウエルテル」や「ルネ」を生んだのもやはりこの時代的ヒステリイであらう。更に又全ヨオロツパを挙げて十字軍に加はらせたのも、――しかしそれは「文芸的な、余りに文芸的な」問題ではないかも知れない。癲癇《てんかん》は古来「神聖な病」と云ふ名を与へられてゐる。するとヒステリイもことによれば、「詩的な病」と呼ばれるであらう。
 ヒステリイを起してゐるシエクスピイアやゲエテを想像するのは滑稽である。従つてかう云ふ想像をするのは彼等の大を傷けると思はれるかも知れない。が、彼等の大を成すものはこのヒステリイの外にある彼等の表現力そのものである。彼等の何度ヒステリイを起したかは心理学者には或は問題であらう。しかし僕等の問題は表現力そのものに存してゐる。僕はこの文章を作りながら、ふと太古の森の中に烈しいヒステリイを起してゐる無名の詩人を想像した。彼は彼の部落の人々の嘲笑の的になつたであらう。けれどもこのヒステリイの促進した彼の表現力の産物だけは丁度地下の泉のやうに何代も後に流れて行つたであらう。
 僕はヒステリイを尊敬してゐるのではない。ヒステリツクになつたムツソリニは勿論国際的に危険である。けれども若し何びともヒステリイを起さなかつたとしたらば、僕等を喜ばせる文芸上の作品はどの位数を減じたであらう。僕は唯この為にヒステリイを弁護したいと思つてゐる。いつか女人の特権になつた、――しかし事実上何びとにも多少の可能性のあるヒステリイを。
 前世紀の末も文芸的には確かに時代的ヒステリイに陥《おちい》つてゐた。ストリントベリイは「青い本」の中にこの時代的ヒステリイに「悪魔の所為」の名を与へてゐる。悪魔の所為か善神の所為かは勿論僕の知る所ではない。しかし兎に角詩人たちはいづれもヒステリイを起してゐた。現にビルコフの伝記によれば、あの逞しいトルストイさへ半狂乱になつて家出したのは、つい近頃の新聞に出てゐた或女人のヒステリイ患者と殆ど寸分も変つてゐない。

     三十六 人生の従軍記者

 僕は島崎藤村氏のみづから「人生の従軍記者」と呼んでゐたことを覚えてゐる。が、近頃又広津|和郎《かずを》氏の同じ言葉を正宗白鳥氏にも加へてゐると云ふことを仄聞《そくぶん》した。僕は両氏の用ひられる「人生の従軍記者」と云ふ言葉をはつきり知つてゐない訣ではない。それは恐らくは近来の造語「生活者」に対する意味を持つてゐるのであらう。けれども若し厳密に言へば、苟《いやし》くも娑婆界《しやばかい》に生まれたからは何びとも「人生の従軍記者」になることは出来ない。人生は僕等に嫌応《いやおう》なしに「生活者」たることを強ひるのである。嫌応なしに生存競争を試みさせなければ措かないのである。或人びとは自ら進んで勝利を得ようとするであらう。それから又或人びとは冷笑や機智や詠嘆の中に防禦的態度をとるであらう。最後に或人びとはどちらも格別はつきりした意識を持たずに「世を渡る」であらう。しかしいづれも事実上はやむにやまれない「生活者」である。遺伝や境遇の支配を受けた人間喜劇の登場人物である。
 彼等の或ものは勝ち誇るであらう。彼等の或ものは又敗北するであらう。但しどちらも寿命のある限りは、――僕等は皆ペエタアの言つたやうに確かに「いづれも皆執行猶予中の死刑囚である」。この執行猶予の間を何の為に使ふかは僕等自身の自由である。自由である?――しかしそこにもどの位の自由のあるかは疑はしいであらう。僕等は実に種々雑多の因縁を背負つて生まれてゐる。その又種々雑多の因縁は必しも僕等自身さへ悉《ことごと》く意識するとは定まつてゐない。古人はとうにこの事実を Karma の一語に説明した。あらゆる近代の理想主義者たちは大抵このカルマに挑戦してゐる。しかし彼等の旗や槍は畢《つひ》に彼等のエネルギイを示したのにとどまるばかりだつた。彼等のエネルギイを示すことはそれ自身勿論意味を持つてゐる。単に近代の理想主義者たちばかりではない。僕等はカアネギイのエネルギイにも力丈夫に感ずることは確かである。若し力丈夫に感じないとすれば、誰も実業家や政治家の立志譚《りつしだん》は読みたが
前へ 次へ
全28ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング