ではない。若し画面の美しさを云々《うんぬん》するとすれば、僕は未《いまだ》にタイチの女よりもフランスの女を採りたいと思つてゐる。……
 僕はかう云ふ矛盾に似たもの[#「矛盾に似たもの」に傍点]を文芸の中にも感じてゐる。更に又諸家の文芸評論の中にもタイチ派とフランス派とのあるのを感じてゐる。ゴオガンは、――少くとも僕の見たゴオガンは橙色の女の中に人間獣の一匹を表現してゐた。しかも写実派の画家たちよりも更に痛切に表現してゐた。或文芸批評家は――たとへば正宗白鳥氏は大抵[#「大抵」に傍点]この人間獣の一匹を表現したかどうかを尺度にしてゐる。が、或文芸批評家は、――たとへば谷崎潤一郎氏は大抵[#「大抵」に傍点]人間獣の一匹よりも人間獣の一匹を含んだ画面の美しさを尺度にしてゐる。(尤も諸家の文芸評論の尺度は必しもこの二者に限つてゐない。実践道徳的尺度もあれば、社会道徳的尺度もあることは確かである。しかし僕はそれ等の尺度に余り興味を持つてゐない。のみならず持つてゐないことも不思議ではないと信じてゐる。)勿論タイチ派は必しもフランス派と両立しないものではない。両者の差別はこの地上に生じた、あらゆる差別のやうに朦朧《もうろう》としてゐる。が、暫く両端を挙げれば、両者の差別のあることだけは兎に角一応は認めなければならぬ。
 所謂ゲエテ・クロオチエ・スピンガアン商会の美学によれば、この差別も「表現」の一語に霧のやうに消えてしまふであらう。しかし或作品を仕上げる上には度《たび》たび僕等を、――或は僕を岐路に立たせることは事実である。古典的作家は巧妙にもこの岐路を一度に歩いて行つた。彼等に僕等群小の徒の及ぶことの出来ないのは恐らくはそこにあるのであらう。ルノアルは、――少くとも僕の見たルノアルはかう云ふ点ではゴオガンよりも古典的作家に近いのかも知れない。けれども橙色の人間獣の牝《めす》は何か僕を引き寄せようとしてゐる。かう云ふ「野性の呼び声」を僕等の中に感ずるものは僕一人に限つてゐるのであらうか?
 僕は僕と同時代に生まれた、あらゆる造形美術の愛好者のやうにまづあの沈痛な力に満ちたゴオグに傾倒した一人だつた。が、いつか優美を極めたルノアルに興味を感じ出した。それは或は僕の中にある都会人の仕業だつたかも知れない。同時に又ルノアルを軽蔑する当時の愛好者の傾向につむじ[#「つむじ」に傍点]を曲げたこともない訣《わけ》ではなかつた。けれども十年あまりたつて見ると、――立派に完成したルノアルは未だに僕を打たない訣ではない。しかしゴオグの糸杉や太陽はもう一度僕を誘惑するのである。それは橙色の女の誘惑とは或は異つてゐるかも知れない。が、何か切迫したものに言はば芸術的食慾を刺戟されるのは同じことである。何か僕等の魂の底から必死に表現を求めてゐるものに。――
 しかも僕はルノアルに恋々《れんれん》の情を持つてゐるやうに文芸上の作品にも優美なものを愛してゐる。「エピキユウルの園」を歩いたものは容易にその魅力を忘れることは出来ない。殊に僕等都会人はその点では誰よりも弱いのである。プロレタリア文芸の呼び声も勿論僕を動かさないのではない。が、それよりもこの問題は根本的に僕を動かすのである。純一無雑になることは誰にも恐らくは困難であらう。しかし兎に角外見上でも僕の知つてゐる作家たちの中にはこの境涯にゐる人もない訣ではない。僕はいつもかう云ふ人々に多少の羨望《せんばう》を感じてゐる。……
 僕は誰かの貼《は》つた貼り札によれば、所謂「芸術派」の一人になつてゐる。(かう云ふ名称の存在するのは、同時に又かう云ふ名称を生んだ或|雰囲気《ふんゐき》の存在するのは世界中に日本だけであらう。)僕の作品を作つてゐるのは僕自身の人格を完成する為に作つてゐるのではない。況《いはん》や現世の社会組織を一新する為に作つてゐるのではない。唯僕の中《うち》の詩人を完成する為に作つてゐるのである。或は詩人兼ジヤアナリストを完成する為に作つてゐるのである。従つて「野性の呼び声」も僕には等閑に附することは出来ない。
 或友人は森先生の詩歌に不満を洩らした僕の文章を読み、僕は感情的に森先生に刻薄《こくはく》であると云ふ非難を下した。僕は少くとも意識的には森先生に敵意などは持つてゐない。いや、寧《むし》ろ森先生に心服してゐる一人であらう。しかし僕の森先生にも羨望を感じてゐることは確かである。森先生は馬車馬のやうに正面だけ見てゐた作家ではない。しかも意力そのもののやうに一度も左顧右眄《さこうべん》したことはなかつた。「タイイス」の中のパフヌシユは神に祈らずに人の子だつたナザレの基督《キリスト》に祈つてゐる。僕のいつも森先生に近づき難い心もちを持つてゐるのは或はかう云ふパフヌシユに近い歎息を感じてゐる為であらう。

 
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