三十一 「西洋の呼び声」

 僕はゴオガンの橙色の女に「野性の呼び声」を感じてゐる。しかし又ルドンの「若き仏陀」(土田|麦僊《ばくせん》氏所蔵?)に「西洋の呼び声」を感じてゐる。この「西洋の呼び声」もやはり僕を動かさずには措《お》かない。谷崎潤一郎氏も谷崎氏自身の中に東西両洋の相剋《さうこく》を感じてゐる。しかし僕の「西洋の呼び声」と云ふのは或は谷崎氏の「西洋の呼び声」とは多少異つてゐるかも知れない。僕はその為に僕の感じる「西洋」のことを書いて見ることにした。
「西洋」の僕に呼びかけるのはいつも造形美術の中からである。文芸上の作品は――殊に散文は存外この点では痛切ではない。それは一つには僕等人間は人間獣であることに東西の差別の少ない為であらう。(最も手近な例を引けば、某医学博士の或少女を凌辱《りようじよく》したのは全然神父セルジウスの百姓の娘に対したのと異らない男性の心理である。)それから又僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉へる為には余りに不完全である為であらう。僕等は、――少くとも僕は紅毛人《こうまうじん》の書いた詩文の意味だけは理解出来ないことはない。が、僕等の祖先の書いた詩文――たとへば凡兆《ぼんてう》の「木の股のあでやかなりし柳かな」に対するほど、一字一音の末に到るまで舌舐《したな》めずりをすることは出来ないのである。西洋の僕に呼びかけるのに造形美術を通してゐるのは必しも偶然ではないかも知れない。
 この「西洋」の底に根を張つてゐるものはいつも不可思議なギリシアである。水の冷暖は古人も言つたやうに飲んで自知する外に仕かたはない。不可思議なギリシアも亦同じことである。僕は最も手短かにギリシアを説明するとすれば、日本にもあるギリシア陶器の幾つかを見ることを勧めるであらう。或は又ギリシア彫刻の写真を見ることを勧めるであらう。それ等の作品の美しさはギリシアの神々の美しさである。或は飽くまでも官能的な、――言はば肉感的な美しさの中に何か超自然と言ふ外はない魅力を含んだ美しさである。この石に滲《し》みこんだ麝香《じやかう》か何かの匂のやうに得体《えたい》の知れない美しさは詩の中にもやはりないことはない。僕はポオル・ヴアレリを読んだ時、(紅毛の批評家は何と言ふか知れない。)ボオドレエルの昔からいつも僕を動かしてゐたかう云ふ美しさに邂逅《かいこう》した。しかし最も直接に[#「最も直接に」に傍点]僕にこのギリシアを感じさせたのは前に挙げた一枚のルドンである。……
 ギリシア主義とヘブライ主義との思想上の対立はいろいろの議論を生じてゐる。が、僕はそれ等の議論には余り興味を持つてゐない。唯街頭の演説に耳を傾けるやうに聞いてゐるだけである。しかしこのギリシア的な美しさはかう云ふ問題に門外漢の僕にも「恐しい」と言つても差支へない。僕はここにだけ――このギリシアにだけ僕等の東洋に対立する「西洋の呼び声」を感じるのである。貴族はブウルヂヨアに席を譲つたであらう。ブウルヂヨアも亦プロレタリアに早晩席を譲るであらう。けれども西洋の存する限り、不可思議なギリシアは必ず僕等を、――或は僕等の子孫たちを引き寄せようとするのに違ひない。
 僕はこの文章を書いてゐるうちに古代の日本に渡つて来たアツシリアの竪琴《たてごと》を思ひ出した。大いなる印度は僕等の東洋を西洋と握手させるかも知れない。しかしそれは未来のことである。西洋は――最も西洋的なギリシアは現在では東洋と握手してゐない。ハイネは「流謫《るたく》の神々」の中に十字架に逐《お》はれたギリシアの神々の西洋の片田舎に住んでゐることを書いた。けれどもそれは片田舎にもしろ、兎に角西洋だつたからである。彼等は僕等の東洋には一刻も住んではゐられなかつたであらう。西洋はたとひヘブライ主義の洗礼を受けた後にもしろ、何か僕等の東洋と異つた血脈を持つてゐる。その最も著しい例は或はポルノグラフイイにあるかも知れない。彼等は肉感そのものさへ僕等と趣《おもむき》を異にしてゐる。
 或人々は千九百十四五年に死んだドイツの表現主義の中に彼等の西洋を見出してゐる。それから又或人々は――レムブラントやバルザツクの中《うち》に彼等の西洋を見出してゐる人々も勿論多いことであらう。現に秦豊吉《はたとよきち》氏などはロココ時代の芸術に秦氏の西洋を見出してゐる。僕はかう云ふ種々の西洋を西洋ではないと言ふのではない。しかしそれらの西洋のかげにいつも目を醒ましてゐる一羽の不死鳥――不可思議なギリシアを恐れてゐるのである。恐れてゐる?――或は恐れてゐるのではないかも知れない。けれども妙に抵抗しながら、やはりじりじりと引き寄せられる動物的磁気に近いものを感じない訣《わけ》には行かないのである。
 僕は若《も》し目をつぶれるとすれば、かう云ふ「西洋
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