長篇を絮々綿々《じよじよめんめん》と書き上げる肉体的力量には劣つてゐると思つてゐる。
 更に谷崎氏に答へたいのは「芥川君の筋の面白さを攻撃する中《うち》には、組み立て[#「組み立て」に傍点]の方面よりも、或は寧ろ材料[#「材料」に傍点]にあるかも知れない」と云ふ言葉である。僕は谷崎氏の用ふる材料には少しも異存を持つてゐない。「クリツプン事件」も「小さい王国」も「人魚の歎き」も材料の上では決して不足を感じないものである。それから又谷崎氏の創作態度にも、――僕は佐藤春夫氏を除けば、恐らくは谷崎氏の創作態度を最も知つてゐる一人であらう。僕が僕自身を鞭《むちう》つと共に谷崎潤一郎氏をも鞭ちたいのは(僕の鞭に棘《とげ》のないことは勿論谷崎氏も知つてゐるであらう。)その材料を生かす為の詩的精神の如何《いかん》である。或は又詩的精神の深浅である。谷崎氏の文章はスタンダアルの文章よりも名文であらう。(暫く十九世紀中葉の作家たちはバルザツクでもスタンダアルでもサンドでも名文家ではなかつたと云ふアナトオル・フランスの言葉を信ずるとすれば)殊《こと》に絵画的効果を与へることはその点では無力に近かつたスタンダアルなどの匹儔《ひつちう》ではない。(これも又連帯責任者にはブランデスを連れてくれば善い。)しかしスタンダアルの諸作の中に漲《みなぎ》り渡つた詩的精神はスタンダアルにして始めて得られるものである。フロオベエル以前の唯一のラルテイストだつたメリメエさへスタンダアルに一籌《いつちう》を輸《ゆ》したのはこの問題に尽きてゐるであらう。僕が谷崎潤一郎氏に望みたいものは畢竟《ひつきやう》唯この問題だけである。「刺青《しせい》」の谷崎氏は詩人だつた。が、「愛すればこそ」の谷崎氏は不幸にも詩人には遠いものである。
「大いなる友よ、汝は汝の道にかへれ。」

     三 僕

 最後に僕の繰り返したいのは僕も亦今後|側目《わきめ》もふらずに「話」らしい話のない小説ばかり作るつもりはないと云ふことである。僕等は誰も皆出来ることしかしない[#「出来ることしかしない」に傍点]。僕の持つてゐる才能はかう云ふ小説を作ることに適してゐるかどうか疑問である。のみならずかう云ふ小説を作ることは決して並み並みの仕事ではない。僕の小説を作るのは小説はあらゆる文芸の形式中、最も包容力に富んでゐる為に何でもぶちこんでしまはれる
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