からである。若し長詩形の完成した紅毛人の国に生まれてゐたとすれば、僕は或は小説家よりも詩人になつてゐたかも知れない。僕はいろいろの紅毛人たちに何度も色目を使つて来た。しかし今になつて考へて見ると、最も内心に愛してゐたのは詩人兼ジヤアナリストの猶太人《ユダヤじん》――わがハインリツヒ・ハイネだつた。
[#地から2字上げ](昭和二年二月十五日)
四 大作家
僕は上に書いた通り、頗《すこぶ》る雑駁《ざつぱく》な作家である。が、雑駁な作家であることは必しも僕の患《わづら》ひではない。いや、何びとの患ひでもない。古来の大作家と称するものは悉《ことごと》く雑駁な作家である。彼等は彼等の作品の中にあらゆるものを抛《はふ》りこんだ。ゲエテを古今の大詩人とするのもたとひ全部ではないにもせよ、大半はこの雑駁なことに、――この箱船の乗り合ひよりも雑駁なことに存してゐる。しかし厳密に考へれば、雑駁なことは純粋なことに若《し》かない。僕はこの点では大作家と云ふものにいつも疑惑の目を注いでゐる。彼等は成程一時代を代表するに足るものであらう。しかし彼等の作品が後代を動かすに足るとすれば、それは唯彼等がどの位純粋な作家だつたかと云ふ一点に帰してしまふ訣《わけ》である。「大詩人と云ふことは何でもない。我々は唯純粋な詩人を目標にしなければならぬ」と云ふ「狭い門」(ジツド)の主人公の言葉も決して等閑《とうかん》に附することは出来ない。僕は「話」らしい話のない小説を論じた時、偶然この「純粋な」と云ふ言葉を使つた。今この言葉を機縁にし、最も純粋な作家たちの一人、――志賀直哉氏のことを論ずるつもりである。従つてこの議論の後半はおのづから志賀直哉論に変化するであらう。尤も時と場合により、どう云ふ横道に反《そ》れてしまふか、それは僕自身にも保証出来ない。
五 志賀直哉氏
志賀直哉氏は僕等のうちでも最も純粋な作家――でなければ最も純粋な作家たちの一人である。志賀直哉氏を論ずるのは勿論僕自身に始まつたことではない。僕は生憎《あいにく》多忙の為に、――と云ふよりは寧ろ無精《ぶしやう》の為にそれ等の議論を読まずにゐる。従つていつか前人の説を繰り返すことになるかも知れない。しかし又或は前人の説を繰り返すことにもならないかも知れない。……
(一)[#「(一)」は縦中横] 志賀直哉氏の作品は何
前へ
次へ
全55ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング