には寧《むし》ろ不名誉なことかも知れない。)彼等は僕等に一顧《いつこ》も与へてゐない。僕等は彼等には未開人である。しかも日本に住んでゐる彼等は必ずしも彼等を代表するものではない。恐らくは世界を支配する彼等のサムプルとするにも足りないものであらう。が、僕等は丸善のある為に多少彼等の魂を知つてゐることは確かである。
なほ又|次手《ついで》につけ加へれば、彼等も亦本質的にはやはり僕等と異つてゐない。僕等は(彼等も一しよにした)皆世界と云ふ箱船に乗つた人間獣の一群である。しかもこの箱船の中は決して明るいものではない。殊に僕等日本人の船室は度《たび》たび大地震に見舞はれるのである。
堀口九万一氏の紹介は生憎《あいにく》まだ完結してゐない。のみならず氏の加へる筈の批評も載つてゐないのである。が、僕はそれだけにも、ふとこんなことを考へた為にとりあへずペンを走らせることにした。
二十四 代作の弁護
「古代の画家は少からず傑出した弟子を持つてゐる。が、近代の画家は持つてゐない。それは彼等の金の為に、或は高遠な理想の為に弟子を教へる為である。古代の画家の弟子を教へたのは代作をさせるつもりだつた。従つて彼等の技巧上の秘密も悉《ことごと》く弟子に伝へたのである。弟子の傑出したのも不思議ではない。」――かう云ふサミユエル・バツトラアの言葉は一面には真実を語つてゐる。天賦の才はその為にばかり勿論生まれて来るものではない。しかし又その為に促されることも多いであらう。僕はこの頃フロオベエルのモオパスサンを教へるのにどの位深切を尽《つく》したかを知つた。(彼はモオパスサンの原稿を読んでやる時、連続した二つの文章の同じ構造であるのさへやかましく言つた。)しかしそれは何びとにも望むことの出来るものではない。(弟子に才能のある場合にしても)
今日の日本は芸術さへ大量生産を要求してゐる。のみならず作家自身にしても、大量生産をしない限り、衣食することも容易ではない。しかし量的向上は大抵質的低下である。すると古人の行つたやうに弟子に代作させることも或は幾多の才人を生ずることになるかも知れない。封建時代の戯作者《げさくしや》は勿論、明治時代の新聞小説家も全然この便法を用ひなかつたのではなかつた。美術家は、――たとへばロダンはやはり部分的[#「部分的」に傍点]には彼の作品を弟子に作らせてゐたので
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