ら、しかもいつか忘れられた何人かの人々を数へてゐる。彼等は今日の作家たちよりも或は力を欠いてゐたかも知れない。けれども偶然と云ふものはやはりそこにもあつた訣である。(若し全然かう云ふ分子を認めない作家があるとすれば、それは例外とする外はない。)それ等の作品を集めることは或は不可能に近いかも知れない。しかし若し出来るとすれば、彼等の為は暫く問はず、後人《こうじん》の為にも役立つことであらう。
「生まるる時の早かりしか、或は又遅かりしか」は南蛮の詩人の歎《なげき》ばかりではない。僕は福永|挽歌《ばんか》、青木健作、江南文三《えなみぶんざ》等の諸氏にもかう云ふ歎を感じてゐる。僕はいつか横文字の雑誌に「半ば忘れられた作家たち」と云ふシリイズの広告を発見した。僕も亦或はかう云ふシリイズに名を連ねる作家たちの一人であらう。かう云ふのは格別謙遜したのではない。イギリスのロマン主義時代の流行児だつた「僧」の作家ルイズさへやはりこのシリイズの中の一人である。しかし半ば忘れられた作家たちは必しも過去ばかりにある訣《わけ》ではない。のみならず彼等の作品は一つの作品として見る時には現世の諸雑誌に載る作品よりも劣つてゐるとは言はれないのである。
十二 詩的精神
僕は谷崎潤一郎氏に会ひ、僕の駁論《ばくろん》を述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。すると谷崎氏は「さう云ふものならば何にでもあるぢやないか?」と言つた。僕はその時も述べた通り、何にでもあることは否定しない。「マダム・ボヴアリイ」も「ハムレツト」も「神曲」も「ガリヴアアの旅行記」も悉く詩的精神の産物である。どう云ふ思想も文芸上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の浄火《じやうくわ》を通つて来なければならぬ。僕の言ふのはその浄火を如何に燃え立たせるかと云ふことである。それは或は半ば以上、天賦《てんぷ》の才能によるものかも知れない。いや、精進の力などは存外《ぞんぐわい》効のないものであらう。しかしその浄火の熱の高低は直ちに或作品の価値の高低を定めるのである。
世界は不朽《ふきう》の傑作にうんざりするほど充満してゐる。が、或作家の死んだ後、三十年の月日を経ても、なほ僕等の読むに足る十篇の短篇を残したものは大家と呼んで
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