文芸鑑賞講座
芥川龍之介
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文芸上の作品を鑑賞する為には文芸的素質がなければなりません。文芸的素質のない人は如何なる傑作に親んでも、如何なる良師に従つても、やはり常に鑑賞上の盲人に了《をは》る外はないのであります。文芸と美術との相違はありますが、書画骨董を愛する富豪などにかう云ふ例の多いことは誰でも知つてゐる事実でありませう。しかし文芸的素質の有無と云ふことも程度によりけりでありますから、テエブルや椅子の有無のやうに判然ときめる訳には行かないのであります。たとへばわたし自身などはゲエテとかシエクスピイアと云ふ文豪なるものに比べれば、文芸的素質はないと言つてもよろしい。或はもつと下らぬ作家に比べても、ないに等しいかも知れません。けれども野田大塊《のだたいくわい》先生あたりに比べれば、文芸的素質――少くとも俳諧的素質は大いにある。これはあなたがたでも同じことであります。すると文芸に興味のある人はまづ文芸的素質もあるものと己惚《うぬぼ》れてかかつても差支へありません。少くとも己惚れてかかつた方が幸福であることは確かであります。
では文芸的素質さへあれば、文芸上の作品を鑑賞することも容易に出来るものかと言ふと、これはさうは行きません。やはり創作と同じやうに、鑑賞の上にもそれ相当の訓練を受けることが必要であります。尤《もつと》もダンヌンツィオは十五の時に詩集を出したとか、池大雅は五つの時に書を善くしたとか言ふやうに、古来の英霊漢は創作の上にさへ、天成の才能を発揮してゐます。が、これは天才と称する怪物のことでありますから、我々凡人は気にかけずともよろしい。のみならず彼等の早熟は訓練を受けなかつたと言ふよりも、驚く可く短い時間の中に驚く可く深い訓練を受けたと言ふ方が妥当であります。すると我々凡人はいやが上にも訓練を受ける覚悟をしなければなりません。いや、我々凡人ばかりではない、如何なる天才も天才以上になる大望を持つてゐれば、当然訓練を受けた上にも更に又訓練を重ねる筈であります。又実際天才の伝記――たとへば森鴎外先生の「ギヨオテ伝」(言ふまでもないことと思ひますが、森先生は所謂ゲエテを常にギヨオテと書かれたのであります。)を読んで御覧なさい。天才とは殆《ほとん》ど如何なる時にも訓練を受ける機会を逃さぬ才能と言ふことも出来るほどであります。
では又かう云ふ訓練を受けた結果、鑑賞の程度が深くなる、或は鑑賞の範囲が広くなることはどう云ふ役に立つかと言ふと、勿論深くなり広くなること自身が人生を豊富にすることは事実であります。人生は生命を銭の代りに払ふ珈琲店《コオヒイてん》と同じでありますから、いろいろのものが味はへれば、それに越した幸福はありません。が、鑑賞の程度が深くなつたり、鑑賞の範囲が広くなつたりすることは更に又創作上にも少からぬ利益を与へる筈であります。元来芸術と云ふものは――いや、これは議論よりも実例を挙げた方が早いかも知れません。実例と言ふのはロダンの話であります。ロダンはフロレンスへ行つた時にミケルアンヂェロの彫刻を見ました。それも只の彫刻ではない、在来未完成と称へられてゐる晩年の彫刻を見たのであります。尤も未完成の作品と称へられてゐるのは何もミケルアンヂェロ自身の証明のある次第ではありません。只大理石の塊の中に模糊たる人間の姿が浮かんでゐる、まあざつと形容すれば、天地開闢《てんちかいびやく》の昔以来、大理石の塊の中に眠つてゐた、何とも得体の知れぬ人間がやつと目をさましたと言ふ代物であります。ロダンはかう言ふ彫刻を見た時に、未完成の――と言ふよりも寧《むし》ろ茫漠とした無限の美に打たれました。それからあの大理石の塊へ半ば人間を彫刻した作品、――たとへば「詩人とミユウズ」などを作り出すやうになつたのであります。するとロダンの成長の一歩はミケルアンヂェロの所謂未完成の作品に接したことに懸つてゐる、けれどもかう言ふ作品を見たものは勿論ロダン一人ではない。古往今来無数の男女はかう言ふ作品を陳列したフロレンスの博物館へ出入りしてゐる、が、誰もロダンのやうに大いなる美を認めなかつた。して見ればロダンの成長の一歩はこの美を鑑賞したことに懸つてゐる、――と言ふことに帰着しなければなりません。これは如何なる芸術家の上にも当然当嵌る真理であります。成程《なるほど》鑑賞出来る美は必しも創作出来ないでありませう。けれども亦《また》鑑賞出来ない美は到底創作も出来ません。この故に古来の英霊漢は鑑賞上の訓練を受けた上にも更に又訓練を重ねようとしました。それも文芸上の作品の鑑賞ばかりではない、屡《しばしば》美術とか音楽とかにも鑑賞上の訓練を加へた上、その機敏に捉へ得た所を文芸上の創作に活用しました。殊にゲエテの一生はかう言ふ芸術的多慾それ自身であります。尤も鑑賞の程度が深くなる、或は鑑賞の範囲が広くなる結果、創作上の利益も多いなどと言ふことは多言を用ひずとも好いのかも知れません。が、創作に志のある、――少くとも志のあると称する青年諸君の勉強ぶりを見ると、原稿用紙と親密にする割にどうも本とは親密にしません。それではミケルアンヂェロの所謂未完成の作品を見逃してしまふ所ではない、第一フロレンスの博物館の前を素通りしてしまふのも同前であります。わたしは日頃からかう云ふ傾向を頗《すこぶ》る遺憾に思つてゐますから、冗漫の嫌ひはありますが、次手《ついで》を以て創作するのにも鑑賞上の訓練の重大である所以《ゆゑん》を弁じました。
扨《さて》鑑賞上の訓練の必要であることは、――わたくしに都合の好いやうに解釈すれば、この鑑賞講座なるものの必要であることは上に述べましたが、今この鑑賞上の訓練を助ける為に多少の言葉を費すとすると、それはざつと下に挙げる三点になるかと思ひます。即ちその三点と言ふのは(一)どう言ふ風に鑑賞すれば好いか? (二)どう言ふものを鑑賞すれば好いか? (三)どう言ふ鑑賞上の議論を参考すれば好いか?――と言ふことになるのであります。或は鑑賞上の訓練を助ける言葉は必しも上の三点に尽きてゐないかも知れません。けれどもまづ上の三点は比較的重大の問題を尽してゐると言つても好いかと思ひます。そこで愈《いよいよ》どう云ふ風に鑑賞すれば好いか? と言ふ最初の問題にはいりますが、その前にちよつと注意して置きたいのは鑑賞の始まる境であります。盲人は絵画の鑑賞に与《あづか》らなければ、聾者も音楽の鑑賞には与りません。同様に又文芸の鑑賞もまづ文字を読んでその意味を理解する所から始まるのであります。万一文芸の鑑賞に志しながら、文字の読めない人があるとすれば、早速文字を稽古おしなさい。――と言ふと常談のやうに聞えますが、この常談のやうに聞えることさへ、誰でも心得てゐると言ふ訳には行かないのであります。その証拠には歌人などに万葉時代の言葉を使つて歌を作る人がゐると、耳遠い古語を使ふのは怪しからぬと言ふ非難を生じます。が、古語に通じないのは歌人の知つたことではありません。歌人は古語でも新語でも好い、只歌人自身の生命を托し得る言葉を使ふのであります。或はその言葉を使ふより外に、表現したいと思ふ情緒の表現出来ぬ言葉を使ふのであります。もし古語に耳遠い人があれば、その人は歌人を非難する為に、略解《りやくげ》を読むなり古義を読むなり、御自身まづ古語の稽古を積んでかからなければなりません。それを歌人ばかり責めるのは不合理以上に滑稽であります。かう言ふ滑稽も許されるとすれば、勿論英語の読めない人は「なぜ英語のハムレツトを書いた?」とシエクスピイアを責めるのに違ひありません。が、シエクスピイアの英語は誰も責めない、只歌人の古語ばかりを責める、――これは明らかに文芸の鑑賞はまづ文字を読んでその意味を理解する所から始まると言ふ原則を無視してゐる実例であります。して見れば如何に当り前のやうに聞えても、やはり本題へはいる前に十分この原則だけは心得てかからなければなりません。
なほ次手に断つて置きますが、この「文字を読んでその意味を理解する」と言ふ意味は官報を読んで理解するのと同じやうに理解するのではありません。わたくしはこの議論の冒頭に文芸的素質のない人は如何に傑作に親んでも、如何に良師に従つても、鑑賞上の盲人に了る外はないと言ひました。その「鑑賞上の盲人」とは赤人人麻呂の長歌を読むこと、銀行や会社の定款《ていくわん》を読むのと選ぶ所のない人のことであります。わたしの「理解する」と言ふ意味は単に桜を一種の花木と理解することを言ふのではない。一種の花木と理解すると同時におのづから或感じを生ずる、――哲学じみた言葉を使へば、認識的に理解すると共に情緒的にも理解することを言ふのであります。
尤もその感じは好感でも好ければ、悪感でも差支へはありません。兎《と》に角《かく》或情緒だけは伴つて来なければならぬのであります。もし文芸の鑑賞に志しながら、一種の花木と言ふより外に桜を理解出来ない人があるとすれば、その人は甚だお気の毒ですが、まづ文芸の鑑賞には縁のないものとおあきらめなさい。これは文字の読めないのよりも、稽古する余地のないだけに一層致命的な弱点であります。その証拠には御覧なさい。より文字の読める文科大学教授は往々――と言ふよりも寧ろ屡《しばしば》、より文字の読めない大学生よりも鑑賞上には明めくらであります。
文芸上の作品をどう言ふ風に鑑賞すれば好いかと言ふことは勿論大問題でありますが、まづわたしの主張したいのは素直に作品に面することであります。これはかう言ふ作品とか、あれはああ言ふ作品とか言ふ心構へをしないことであります。況《いはん》や片々たる批評家の言葉などを顧慮してかかつてはいけません。片々たらざる批評家の言葉も顧慮せずにすめばしない方がよろしい。兎に角作品の与へるものをまともに受け入れることが必要であります。尤も「ではその作品は読まないにもせよ、既に二三の作品を読んだ作家の作品はどうするか?」と言ふ質問も出るかも知れません。それもやはり同じことであります。同一の作家にした所が、前のと全然異つた作品を書かないものとは限りません。現にストリントベリイなどは自然主義時代とその以後とに可成《かなり》かけ離れた作品を書いてゐます。たとへば「伯爵令嬢ユリエ」と「ダマスクスへ」とを比べて御覧なさい。残酷な前者の現実主義は夢幻的な後者の象徴主義と著しい相違を示してゐます。それをどちらかの作品から推した心構へを以て臨めば、どうしても失望――しないにもせよ、兎に角多少は鑑賞上に狂ひを生じ易いのであります。しかし勿論絶対に何等の心構へもしないと言ふことは人間業には及びません。必ずどの作品にも或は作家の人となりから、或は作家の流派から、或は又装幀だの挿画だのから、幾分かの暗示を受けてゐます。が、わたしの主張するのはそれをも排斥しろと言ふのではない、只それを出来るだけ少くしたいと言ふのであります。これは文芸の話ではない、画の話でありますが、あの、サロメの挿画を描いたビイアズレエと言ふ青年が或時或人々に何枚かの作品を示しました。するとその人々の中にゐたのはこれも名高い「カアライルの肖像」などを描いたホイツスラアであります。ホイツスラアはビイアズレエの作品に余り好意を持たずにゐましたから、その時も始は冷然として取り合ふ気色を見せずにゐました。が、一枚一枚見て行くうちに、だんだん感心し出したと見え、とうとう「美しい。非常に美しい」と言ひ出しました。それを聞いたビイアズレエは余程この先輩の賞賛が嬉
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