しかつたと見え、思はず両手を顔に当てゝ泣き出してしまつたさうであります。ビイアズレエの作品は幸ひにもホイツスラアの持つてゐた心構へを打ち砕きました。けれども万一ホイツスラアが頑固に心構へを捨てなかつたとすれば――それは独りビイアズレエの為に不幸であるばかりではありません、ホイツスラアの為にも不幸であります。私はこの逸話を読んだ時に、さぞその時のビイアズレエは嬉しかつたらうと思ひました。同時に又その時のホイツスラアもやはり嬉しかつたらうと思ひました。わたしの心構へをするなと言ふのも他意のある訳ではありません。片々たる批評家の言葉の為にも、何かと心構へを生じ易い結果、存外一かどの作品も看過されることが多いからであります。
しかし素直に面して見ても、世界的に名高い作品さへ何の感銘も与へないことは必しもないとは限りません。かう言ふ時はどうするかと言へば、何も無理には感心したがらずに、そのまゝ少時は読まずにお置きなさい。実際如何なる傑作でも読者の年齢とか、境遇とか、或は又教養とか、種々の制限を受けることは当り前の話でありますから、誰にも容易に理解出来ないのは少しも不思議ではありません。それは自慢は出来ないにもせよ、少くとも自己を欺いて感心した風を装ふよりも恥かしいことではない筈であります。けれども前に読んだ時に理解出来なかつた作品も成る可くは読み返して御覧なさい。その内には目のさめたやうに豁然《くわつぜん》と悟入も出来るものであります。古来禅宗の坊さんは「※[#「口+卒」、第3水準1−15−7]啄《そつたく》の機」とか言ふことを言ひます。これは大悟を雛に譬《たと》へ、一羽の雛の生まれる為には卵の中の雛の啄《くちばし》と卵の外の親鳥の啄と同時に殻を破らなければならぬと言ふことを教へたものであります。文芸上の作品を理解するのもやはりこれと変りはありません。読者自身の心境さへ進めば、鑑賞上の難関も破竹のやうに抜けるものであります。ではその心境を養ふにはどう言ふ道を採るかと言へば、半ばは後に出て来る問題、――即ちどうものを鑑賞すれば好いか? 並びにどう言ふ鑑賞上の議論を参考すれば好いか? と言ふ問題にはひりますが、半ばは又人間的修業であります。或はもつと通俗的に言へば、一かどの人間になることであります。文学青年ではいけません。当世才子ではいけません。自称天才ではなほいけません。一通りは人情の機微を知つたほんたうの大人《おとな》になることであります。と言ふと「それは大事業だ」とひやかす読者もあるかも知れません。が、鑑賞は御意の通り、正に一生の大事業であります。
素直に作品に面すると言ふのはその作品を前にした心全体の保ちかたであります。が、心の動かしかたから言へば、今度は出来るだけ丹念に目を配つて行かなければなりません。もし小説だつたとすれば、筋の発展のしかたはとか人物の描写のしかたとかは勿論、一行の文字の使ひかたにも注意して行かなければなりません。これは創作に志す青年諸君には殊に必要かと思ひます。古来の名作と言はれる作品を細心に読んで御覧なさい。一篇の感銘を醸《かも》し出す源は到る所に潜んでゐます。名高いトルストイの「戦争と平和」は古今に絶した長編であります。しかしあの恐しい感銘は見事な細部の描写を待たずに生じて来るものではありません。たとへばラストオヴア伯爵家の独逸《ドイツ》人の家庭教師を御覧なさい。(第一巻第十八章)この独逸人の家庭教師は主要な人物でない所か、寧ろ顔を出さずとも差支へないほどの端役であります。しかしトルストイは伯爵家の晩餐会を描いた数行の中に彼の性格を躍動させてゐます。
「独逸人の家庭教師は食物だのデザアトだの(食事の後に出る菓子や果物)酒だのの種類を残らず覚えようと努力した。それは後にこまごまと故郷の家族に書いてやる為だつた。だから家来がナプキンに包んだ酒の瓶《びん》を携へたまま、時々素通りをしたりすると、大いに憤慨して顔をしかめた。が、なる可くそんな酒などは入るものかと言ふ風を見せるようにした。彼の酒を欲しがるのは格別渇いてゐる為でもなければ、根性のさもしい為でもない。只|頗《すこぶ》る品の良い好奇心を持つてゐる為である。しかしそれは不幸にも誰一人認めてくれるものはない。――彼はかう思ふと口惜しかつた。」
翻訳は甚だ拙劣でありますが、大意は伝へられることと思ひます。前にもちよつと述べた通り、かう言ふ細部の美しさなしには「戦争と平和」十七巻の感銘、――あの手固い壮大の感銘を生み出すことは出来ません。――と言ふのは創作の上でありますが、これを鑑賞の上へ移すと、かう言ふ細部の美しさをも鑑賞することが出来なければ、あの手堅い壮大の感銘は到底はつきりとは捉へられません。只何か漠然とした感銘を受けるのに了るだけであります。この丹念に目を配ることは一篇の大局を忘れない以上、微細に亘《わた》れば亘るほどよろしい。露西亜《ロシア》に生まれなかつた我々は到底トルストイの文章の末までも目を通すことは出来ません。それはやむを得ない運命でありますが、苟《いやし》くも外国人にも窺はれる所は悉《ことごとく》看破するだけの気組みを持たなければなりません。支那人は古来「一字の師」と言ふことを言ひます。詩は一字の妥当を欠いても、神韻を伝へることは出来ませんから、その一字を安からしめる人を「一字の師」と称するのであります。たとへば唐の任翻《じんはん》と言ふ詩人が天台山の巾子峰《きんしほう》に遊んだ時、寺の壁に一詩を題しました。その詩は便宜上仮名まじりにすると、「絶頂の新秋、夜涼を生ず。鶴は松露を翻して衣裳に滴る。前峰の月は照す、一江の水[#「一江の水」に白丸傍点]。僧は翠微《すゐび》に在つて竹房を開く。」と言ふのであります。が、天台山を去つて数十里――と言つても六町一里位でありませうが、兎に角数十里来るうちに、ふと任翻は「一江の水[#「一江の水」に白丸傍点]」よりも「半江の水[#「半江の水」に白丸傍点]」と言つた方が適切だつたことに気づきました。そこでもう一度御苦労にも巾子峰へ引き返して見ると、誰かもう壁に書いた「一江の水」を「半江の水」と書き改めてしまつた後でありました。先手を打たれた任翻はこの改作を眺めながら、しみじみ「台州(天台山のある土地の名)人有り」と長嘆したと言ふことであります。既に一篇の詩の生死は一字に関してゐるとすれば、「一字の師」は同時に又「一篇の師」にならなければなりません。これを鑑賞の上へ移すと、一字を知るものは一篇を知るもの、――或は一篇を知る為には一字を知らなければならぬと言ひ換へられる筈であります。今如何に一行の文章も等閑視し難いかを示す為に夏目先生を例に引いて見ませう。
「木戸を開けて表へ出ると、大きな馬の足迹《あしあと》の中に雨が一杯たまつてゐた。」(「永日小品」の「蛇」)
「風が高い建物に当たつて、思ふ如く真直に抜けられないので、急に稲妻に折れて、頭の上から斜《はす》に鋪石《しきいし》迄吹き卸ろして来る。自分は歩きながら、被つてゐた山高帽を右の手で抑へた。」(「永日小品」の「暖かい夢」)
これはいづれも数語の中に一事件の起る背景を描いた辣腕《らつわん》を示してゐるものであります。前者の馬の足跡に雨中の田舎道を浮かび出させてゐますし、後者は又稲妻形の風に大都市の往来を浮かび出させてゐます。かう言ふ例に富んでゐるのは勿論夏目先生に限りません。古来名作と称へられるものはいづれもこの妙所を具へてゐます。この妙所を捉へぬ限り、鑑賞上の十全を期することは――殊に創作上の利益を得ることは不可能と言つても好い位であります。
尤も前にも述べた通り、細部に心を配ると言つても、それは只全篇の大意を見のがさない上の話であります。若《も》し細部に注意するのを「心の動かしかた」と称へるならば、この全篇の大意を捉へるのは「心の抑へかた」と言つても好いかと思ひます。或は又前者は「どう書いたか?」の問題、後者は「何を書いたか?」の問題と区別出来ないこともありません。次にはこの「何を書いたか?」の問題へ話を進めませう。
前回に「何を書いたか?」の問題へ話を進めると言ひましたが、「文芸講座」もそろ/\完結に近づいた為にこの問題を論ずることは他日に譲る外はありません。尤もこれは前回にも既にちよつと話してゐますし、(第五号の「鑑賞講座」の二頁より三頁に亘る一節)又わたしの「文芸一般論」の「内容」の条《くだり》にも通ずることでありますから、必しも論ずるのを待ちますまい。唯手軽に実際上の用意だけに言及すれば、「何を書いたか?」を捉へる為には種々の教養も必要でありますが、何よりも心得なければならぬことはその作品の中の事件なり或は又人物なりを読者自身の身の上に移して見ること、――即ち体験に徴して見ることであります。これは小説や戯曲の鑑賞は勿論、抒情詩などの鑑賞にも多少の役に立つでせう。アナトオル・フランスの言葉の中に「わたしはわたし自身のことを書いてゐる。読者はそれを読む際に読者自身のことを考へられたい」とか言つてゐるのがありました。これは確かに好忠告であります。たとへばイブセンは「人形の家」の中に何を書いたかを知らうと思へば、あなたがたの夫婦生活を、――或はあなたがたの両親の夫婦生活を考へて御覧なさい。あなたがたは容易にノラの悲劇を捉へることが出来るのに違ひありません。或は現在あなたがたの向う三軒両隣にノラの悲劇の起つてゐることも発見出来る筈であります。我々は文芸上の作品を鑑賞する為にも畢竟《ひつきやう》我々自身の上に立ち戻つて来なければなりません。実際又我々の鑑賞力なるものもその身もとを洗つて見れば、文芸的素質を予想した上の我々の大小に比例するのであります。文学青年ではいけません。当世才子ではいけません。自称天才では、――わたしは又いつの間にか前回の言葉を繰返してゐました。
では何を鑑賞すれば好いか? わたしは古来の傑作を鑑賞するのに限ると思ひます。これは骨董屋の話でありますが、真贋《しんがん》の見わけに熟する為には「ほんもの」ばかりを見なければならぬ、たとひ参考の為などと言つても、「にせもの」に目をなじませると、却《かへ》つて誤り易いと言ふことであります。文芸上の作品を鑑賞するのもやはりこの理窟に変りはありません。傑作ばかりに接してゐれば、勢ひ他の作品の長短にも無神経になることを免れません。これは日常の経験に徴しても、直《すぐ》にわかることでありませう。糞尿の悪臭を不快としないものに薔薇の芳香のわからぬのは当然すぎるほど当然であります。すると新聞や雑誌に載る文芸上の作品しか読まないのなどは最も鑑賞力を養ふのに損であると言はなければなりません。なほ又かう言ふ用心は鑑賞力を養ふ外にも、創作的気魄を高める上に役立ちはしないかと思ひます。元の四大家の一人と呼ばれる倪※[#「王+贊」、第3水準1−88−37]《げいさん》などと言ふ先生は竹や梧桐の茂つた中に清※[#「門<必」、第3水準1−93−47]閣《せいひかく》と言ふ閣を造り、常に古人の名詩画に親んでゐたと言ふことであります。勿論閣を造るのは誰でも銀行の通ひ帳と相談の上でありますが、兎に角古来の傑作にだけは是非とも親しまなければいけません。
しかし古来の傑作と言つても、一概に古代の傑作ばかり読めと言ふ次第ではありません。一番利益の多いと共に一番又取つき易いのは新らしい文芸の古典でせう。西洋の小説を例にすれば、――西洋の小説と言つてもいろ/\ありますが、まづ近代の日本に最も大きい影響を与へたロシアの小説を例にすれば、兎に角トルストイ、ドストエフスキイ、トゥルゲネフ、チェホフなどをお読みなさい。無暗《むやみ》に新らしいものに手をつけるのはジヤアナリストと三越呉服店とに任かせて置けば沢山であります。それよりも偉大なる前人の苦心の痕をお味ひなさい。時代遅れになることなどは心配する必要はありません。片々たる新作品こそ却つて忽《たちま》ち時代遅れになります。又画の話を持つて来ますが、つい近頃まで生き
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