てゐた印象派の大家のルノアルは「我々は何も新らしいことをしようとしたのではない。唯古大家の跡を踏んだだけだ。それを新らしいことのやうに言ひ囃《はや》したのは世間だけに過ぎぬ」と言ひました。単に鑑賞に止まらず、創作に志す青年諸君は一層この心がけを持つて貰ひたいと思ひます。若し諸君の万葉集を読み、或は芭蕉を読むのを見て、時代遅れと笑ふものがあれば、芥川龍之介はかう言つたと、――位のことには何びとも驚かないかも知れません、それならばルノアルはかう言つたと一撃を加へておやりなさい。その為にも甚だ便利だと思ひ、ルノアルを立ち合はせた次第であります。
 ではどう言ふ鑑賞上の議論を参照すれば好いか? これもわたしの所信によれば、批評家よりも寧ろ作家の書いた文芸上の議論が有益であります。と言つても決してわたし自身の「鑑賞講座」の広告などをしてゐる次第ではありません。唯作家の書いたものは何処か作家でなければわからぬ微妙の言が多いからであります。或は又作家の苦心談でもよろしい。かう言ふ議論も昔のものは取りつき悪いと言ふのならば、やはり新らしい文芸の古典的作家の議論でも啓発を受けることは多いでせう。若し夫《そ》れ歌の上ならば、正岡子規の「歌人に与ふる書」や斎藤茂吉氏の「童馬漫語」や島木赤彦氏の「歌道小見」を御覧なさい。これ等は歌の上ばかりに限らず、一般文芸の鑑賞の上にも恐らくは無益ではないでありませう。それから又文芸以外の芸術に関する、一かどの作家の筆に成つた芸術上の議論或は苦心談も存外莫迦にはなりません。これも古いものに辟易《へきえき》するならば、ロダン、セザンヌ、ルノアルなどの語録や何かを御覧なさい。今下に揚げるのは清朝の画家|沈芥舟《しんかいしう》の筆に成つた「芥舟学画篇」の数節であります。この本は在来南画家などの間に広く読まれたものでありますが、それでもなほ当世に通用しない訳ではありません。いや、寧ろ当世にも痛切な言が多いやうであります。
 「華の用を巧と為す。巧にして繊なるときは則《すなわ》ち日に大方に遠し。巧にして奇なれば必ず正格を軽視す。大方を無みして正格を非とすれば、其の美麗を極むと雖《いへど》も、以て衆を驚かし俗を駭かすに足れども、実は即ち米老(米※[#「くさかんむり/市」、第3水準1−90−69]《べいふつ》)の所謂|但《ただ》之を酒肆《しゆし》に懸くべしといふものにして、豈是士大夫の性情を陶写する事ならんや。」
 「若し直《ちよく》にして致《ち》なく、板《はん》にして霊《れい》ならずんば、又是病なり。故に質を存せんと欲する者は先づ須《すべか》らく理径明透して識量宏遠なるべし。之に加ふるに学力を以てし、之に参するに見聞を以てせば、自然に意趣は古に近くして、波瀾老成ならん。」
 「若し夫れ通人才子の情を寄せ興を託する、雅趣余りあらざるに非ざるも、而《しか》も必ず其の規矩《きく》に出入し、動きて輒《すなは》ち合ふ能はざる、是を雅にして未だ正しからずと謂ふ。師門の授受の如きに至りては、膠固《かうもと》より已に深し。既に自ら是として人非とし、復《また》見ること少《まれ》にして怪しむこと多ければ、之を非とせんと欲するも未だ嘗《かつて》縄尺《じようしやく》に乖《そむ》かず。之を是とせんと欲するも、未だ尋常に越ゆるを見ず。是を正にして雅ならずと謂ふ。夫れ雅にして未だ正ならざるは猶可なるも若し正にして未だ雅ならざるは、其の俗を去ること幾何《いくばく》ぞや。」
 元来「鑑賞講座」などと言ふものはいくらでも話す事はあるものであります。しかし最初に挙げた三問題だけは兎に角話してしまひましたから、これでひとまづ打ち切ることにします。何だか愈打ち切るとなると、丁度碌に体も拭かずに湯を上つた時のやうな、物足りなさに似たものもありますが、それは「文芸講座」の都合上やむを得ないことと思はなければなりません。その辺はどうか大目に見て下さい。 (完)



底本:「芥川龍之介全集 第十一巻」岩波書店
   1996(平成8)年9月9日発行
初出:「文芸講座 第二号、第五号、第一二号」文藝春秋
   1924(大正13)年10月10日
   1924(大正13)年11月30日
   1925(大正14)年4月3日
入力:文子
校正:浅原庸子
2007年4月13日作成
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