る余地のないだけに一層致命的な弱点であります。その証拠には御覧なさい。より文字の読める文科大学教授は往々――と言ふよりも寧ろ屡《しばしば》、より文字の読めない大学生よりも鑑賞上には明めくらであります。
文芸上の作品をどう言ふ風に鑑賞すれば好いかと言ふことは勿論大問題でありますが、まづわたしの主張したいのは素直に作品に面することであります。これはかう言ふ作品とか、あれはああ言ふ作品とか言ふ心構へをしないことであります。況《いはん》や片々たる批評家の言葉などを顧慮してかかつてはいけません。片々たらざる批評家の言葉も顧慮せずにすめばしない方がよろしい。兎に角作品の与へるものをまともに受け入れることが必要であります。尤も「ではその作品は読まないにもせよ、既に二三の作品を読んだ作家の作品はどうするか?」と言ふ質問も出るかも知れません。それもやはり同じことであります。同一の作家にした所が、前のと全然異つた作品を書かないものとは限りません。現にストリントベリイなどは自然主義時代とその以後とに可成《かなり》かけ離れた作品を書いてゐます。たとへば「伯爵令嬢ユリエ」と「ダマスクスへ」とを比べて御覧なさい
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