容」の条《くだり》にも通ずることでありますから、必しも論ずるのを待ちますまい。唯手軽に実際上の用意だけに言及すれば、「何を書いたか?」を捉へる為には種々の教養も必要でありますが、何よりも心得なければならぬことはその作品の中の事件なり或は又人物なりを読者自身の身の上に移して見ること、――即ち体験に徴して見ることであります。これは小説や戯曲の鑑賞は勿論、抒情詩などの鑑賞にも多少の役に立つでせう。アナトオル・フランスの言葉の中に「わたしはわたし自身のことを書いてゐる。読者はそれを読む際に読者自身のことを考へられたい」とか言つてゐるのがありました。これは確かに好忠告であります。たとへばイブセンは「人形の家」の中に何を書いたかを知らうと思へば、あなたがたの夫婦生活を、――或はあなたがたの両親の夫婦生活を考へて御覧なさい。あなたがたは容易にノラの悲劇を捉へることが出来るのに違ひありません。或は現在あなたがたの向う三軒両隣にノラの悲劇の起つてゐることも発見出来る筈であります。我々は文芸上の作品を鑑賞する為にも畢竟《ひつきやう》我々自身の上に立ち戻つて来なければなりません。実際又我々の鑑賞力なるものも
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