慢は出来ないにもせよ、少くとも自己を欺いて感心した風を装ふよりも恥かしいことではない筈であります。けれども前に読んだ時に理解出来なかつた作品も成る可くは読み返して御覧なさい。その内には目のさめたやうに豁然《くわつぜん》と悟入も出来るものであります。古来禅宗の坊さんは「※[#「口+卒」、第3水準1−15−7]啄《そつたく》の機」とか言ふことを言ひます。これは大悟を雛に譬《たと》へ、一羽の雛の生まれる為には卵の中の雛の啄《くちばし》と卵の外の親鳥の啄と同時に殻を破らなければならぬと言ふことを教へたものであります。文芸上の作品を理解するのもやはりこれと変りはありません。読者自身の心境さへ進めば、鑑賞上の難関も破竹のやうに抜けるものであります。ではその心境を養ふにはどう言ふ道を採るかと言へば、半ばは後に出て来る問題、――即ちどうものを鑑賞すれば好いか? 並びにどう言ふ鑑賞上の議論を参考すれば好いか? と言ふ問題にはひりますが、半ばは又人間的修業であります。或はもつと通俗的に言へば、一かどの人間になることであります。文学青年ではいけません。当世才子ではいけません。自称天才ではなほいけません。一通
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