の狭い光の帯が高い天井の明り取りから、茫《ぼう》と斜めにさしている。能勢の父親は、丁度その光の帯の中にいた。――周囲では、すべての物が動いている。眼のとどく所でも、とどかない所でも動いている。そうしてまたその運動が、声とも音ともつかないものになって、この大きな建物の中を霧のように蔽《おお》っている。しかし能勢の父親だけは動かない。この現代と縁のない洋服を着た、この現代と縁のない老人は、めまぐるしく動く人間の洪水の中に、これもやはり現代を超越した、黒の中折をあみだにかぶって、紫の打紐のついた懐中時計を右の掌《たなごころ》の上にのせながら、依然としてポンプの如く時間表の前に佇立《ちょりつ》しているのである……

 あとで、それとなく聞くと、その頃大学の薬局に通っていた能勢の父親は、能勢が自分たちと一しょに修学旅行に行く所を、出勤の途すがら見ようと思って、自分の子には知らせずに、わざわざ停車場へ来たのだそうである。
 能勢五十雄は、中学を卒業すると間もなく、肺結核《はいけっかく》に罹《かか》って、物故した。その追悼式《ついとうしき》を、中学の図書室で挙げた時、制帽をかぶった能勢の写真の前で悼
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング