車が通る。店の戸が一つずつ開《あ》く。自分のいる停車場にも、もう二三人、人が立った。それが皆、眠《ね》の足りなそうな顔を、陰気らしく片づけている。寒い。――そこへ割引の電車が来た。
 こみ合っている中を、やっと吊皮《つりかわ》にぶらさがると、誰か後《うしろ》から、自分の肩をたたく者がある。自分は慌《あわ》ててふり向いた。
「お早う。」
 見ると、能勢五十雄《のせいそお》であった。やはり、自分のように、紺のヘルの制服を着て、外套《がいとう》を巻いて左の肩からかけて、麻のゲエトルをはいて、腰に弁当の包《つつみ》やら水筒やらをぶらさげている。
 能勢は、自分と同じ小学校を出て、同じ中学校へはいった男である。これと云って、得意な学科もなかったが、その代りに、これと云って、不得意なものもない。その癖、ちょいとした事には、器用な性質《たち》で、流行唄《はやりうた》と云うようなものは、一度聞くと、すぐに節を覚えてしまう。そうして、修学旅行で宿屋へでも泊る晩なぞには、それを得意になって披露《ひろう》する。詩吟《しぎん》、薩摩琵琶《さつまびわ》、落語、講談、声色《こわいろ》、手品《てじな》、何でも出来た
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