われぬ?――いや、何とも言われぬではない。俺はその疳走《かんばし》った声の中に確かに馬の笑ったのを感じた。馬のみならず俺の喉《のど》もとにも嘶きに似たものがこみ上げるのを感じた。この声を出しては大変である。俺は両耳へ手をやるが早いか、一散《いっさん》にそこを逃げ出してしまった。……」
 けれども運命は半三郎のために最後の打撃を用意していた。と言うのはほかでもない。三月の末のある午頃《ひるごろ》、彼は突然彼の脚の躍《おど》ったり跳《は》ねたりするのを発見したのである。なぜ彼の馬の脚はこの時急に騒《さわ》ぎ出したか? その疑問に答えるためには半三郎の日記を調べなければならぬ。が、不幸にも彼の日記はちょうど最後の打撃を受ける一日前に終っている。ただ前後の事情により、大体の推測《すいそく》は下《くだ》せぬこともない。わたしは馬政紀《ばせいき》、馬記《ばき》、元享療牛馬駝集《げんきょうりょうぎゅうばだしゅう》、伯楽相馬経《はくらくそうばきょう》等の諸書に従い、彼の脚の興奮したのはこう言うためだったと確信している。――
 当日は烈《はげ》しい黄塵《こうじん》だった。黄塵とは蒙古《もうこ》の春風《し
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