は用のことしか思わぬものである。俺もそのためにいつの間《ま》にか馬の脚を忘れていたのであろう。あっと言う間に俺の脚は梯子段の七段目を踏み抜いてしまった。……
「十月×日 俺はだんだん馬の脚を自由に制御することを覚え出した。これもやっと体得して見ると、畢竟《ひっきょう》腰の吊《つ》り合《あい》一つである。が、今日は失敗した。もっとも今日の失敗は必ずしも俺の罪ばかりではない。俺は今朝《けさ》九時前後に人力車《じんりきしゃ》に乗って会社へ行った。すると車夫は十二銭の賃銭《ちんせん》をどうしても二十銭よこせと言う。おまけに俺をつかまえたなり、会社の門内へはいらせまいとする。俺は大いに腹が立ったから、いきなり車夫を蹴飛《けと》ばしてやった。車夫の空中へ飛び上《あが》ったことはフット・ボオルかと思うくらいである。俺は勿論|後悔《こうかい》した。同時にまた思わず噴飯《ふんぱん》した。とにかく脚を動かす時には一層細心に注意しなければならぬ。……」
しかし同僚《どうりょう》を瞞着《まんちゃく》するよりも常子の疑惑を避けることは遥《はる》かに困難に富んでいたらしい。半三郎は彼の日記の中に絶えずこの困難を
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