覚えている。また嶮《けわ》しい梯子段《はしごだん》を転《ころ》げ落ちたようにも覚えている。が、どちらも確かではない。とにかく彼はえたいの知れない幻《まぼろし》の中を彷徨《ほうこう》した後《のち》やっと正気《しょうき》を恢復した時には××胡同《ことう》の社宅に据《す》えた寝棺《ねがん》の中に横たわっていた。のみならずちょうど寝棺の前には若い本願寺派《ほんがんじは》の布教師《ふきょうし》が一人《ひとり》、引導《いんどう》か何かを渡していた。
 こう言う半三郎の復活の評判《ひょうばん》になったのは勿論である。「順天時報《じゅんてんじほう》」はそのために大きい彼の写真を出したり、三段抜きの記事を掲《かか》げたりした。何《なん》でもこの記事に従えば、喪服《もふく》を着た常子はふだんよりも一層にこにこしていたそうである。ある上役《うわやく》や同僚は無駄《むだ》になった香奠《こうでん》を会費に復活祝賀会を開いたそうである。もっとも山井博士の信用だけは危険に瀕《ひん》したのに違いない。が、博士は悠然《ゆうぜん》と葉巻の煙を輪に吹きながら、巧みに信用を恢復《かいふく》した。それは医学を超越《ちょうえつ》する自然の神秘を力説したのである。つまり博士自身の信用の代りに医学の信用を抛棄《ほうき》したのである。
 けれども当人の半三郎だけは復活祝賀会へ出席した時さえ、少しも浮いた顔を見せなかった。見せなかったのも勿論、不思議ではない。彼の脚は復活以来いつの間《ま》にか馬の脚に変っていたのである。指の代りに蹄《ひづめ》のついた栗毛《くりげ》の馬の脚に変っていたのである。彼はこの脚を眺めるたびに何とも言われぬ情《なさけ》なさを感じた。万一この脚の見つかった日には会社も必ず半三郎を馘首《かくしゅ》してしまうのに違いない。同僚《どうりょう》も今後の交際は御免《ごめん》を蒙《こうむ》るのにきまっている。常子も――おお、「弱きものよ汝の名は女なり」! 常子も恐らくはこの例に洩《も》れず、馬の脚などになった男を御亭主《ごていしゅ》に持ってはいないであろう。――半三郎はこう考えるたびに、どうしても彼の脚だけは隠さなければならぬと決心した。和服を廃したのもそのためである。長靴をはいたのもそのためである。浴室の窓や戸じまりを厳重にしたのもそのためである。しかし彼はそれでもなお絶えず不安を感じていた。また不安を感じたのも無理ではなかったのに違いない。なぜと言えば、――
 半三郎のまず警戒したのは同僚の疑惑を避けることである。これは彼の苦心の中でも比較的楽な方《ほう》だったかも知れない。が、彼の日記によれば、やはりいつも多少の危険と闘《たたか》わなければならなかったようである。
「七月×日 どうもあの若い支那人のやつは怪《け》しからぬ脚をくつけたものである。俺《おれ》の脚は両方とも蚤《のみ》の巣窟《そうくつ》と言っても好《い》い。俺は今日も事務を執《と》りながら、気違いになるくらい痒《かゆ》い思いをした。とにかく当分は全力を挙げて蚤退治《のみたいじ》の工夫《くふう》をしなければならぬ。……
「八月×日 俺は今日《きょう》マネエジャアの所へ商売のことを話しに行った。するとマネエジャアは話の中《うち》にも絶えず鼻を鳴らせている。どうも俺の脚の臭《にお》いは長靴の外にも発散するらしい。……
「九月×日 馬の脚を自由に制御《せいぎょ》することは確かに馬術よりも困難である。俺は今日|午休《ひるやす》み前に急ぎの用を言いつけられたから、小走《こばし》りに梯子段《はしごだん》を走り下りた。誰でもこう言う瞬間には用のことしか思わぬものである。俺もそのためにいつの間《ま》にか馬の脚を忘れていたのであろう。あっと言う間に俺の脚は梯子段の七段目を踏み抜いてしまった。……
「十月×日 俺はだんだん馬の脚を自由に制御することを覚え出した。これもやっと体得して見ると、畢竟《ひっきょう》腰の吊《つ》り合《あい》一つである。が、今日は失敗した。もっとも今日の失敗は必ずしも俺の罪ばかりではない。俺は今朝《けさ》九時前後に人力車《じんりきしゃ》に乗って会社へ行った。すると車夫は十二銭の賃銭《ちんせん》をどうしても二十銭よこせと言う。おまけに俺をつかまえたなり、会社の門内へはいらせまいとする。俺は大いに腹が立ったから、いきなり車夫を蹴飛《けと》ばしてやった。車夫の空中へ飛び上《あが》ったことはフット・ボオルかと思うくらいである。俺は勿論|後悔《こうかい》した。同時にまた思わず噴飯《ふんぱん》した。とにかく脚を動かす時には一層細心に注意しなければならぬ。……」
 しかし同僚《どうりょう》を瞞着《まんちゃく》するよりも常子の疑惑を避けることは遥《はる》かに困難に富んでいたらしい。半三郎は彼の日記の中に絶えずこの困難を
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