痛嘆している。
「七月×日 俺の大敵は常子である。俺は文化生活の必要を楯《たて》に、たった一つの日本間《にほんま》をもとうとう西洋間《せいようま》にしてしまった。こうすれば常子の目の前でも靴を脱《ぬ》がずにいられるからである。常子は畳のなくなったことを大いに不平に思っているらしい。が、靴足袋《くつたび》をはいているにもせよ、この脚で日本間を歩かせられるのはとうてい俺には不可能である。……
「九月×日 俺は今日道具屋にダブル・ベッドを売り払った。このベッドを買ったのはある亜米利加《アメリカ》人のオオクションである。俺はあのオオクションへ行った帰りに租界《そかい》の並み木の下《した》を歩いて行った。並み木の槐《えんじゅ》は花盛りだった。運河の水明《みずあか》りも美しかった。しかし――今はそんなことに恋々《れんれん》としている場合ではない。俺は昨夜《ゆうべ》もう少しで常子の横腹を蹴《け》るところだった。……
「十一月×日 俺は今日|洗濯物《せんたくもの》を俺自身洗濯屋へ持って行った。もっとも出入りの洗濯屋ではない。東安市場《とうあんしじょう》の側の洗濯屋である。これだけは今後も実行しなければならぬ。猿股《さるまた》やズボン下や靴下にはいつも馬の毛がくっついているから。……
「十二月×日 靴下の切れることは非常なものである。実は常子に知られぬように靴下|代《だい》を工面《くめん》するだけでも並みたいていの苦労ではない。……
「二月×日 俺は勿論寝る時でも靴下やズボン下を脱いだことはない。その上常子に見られぬように脚の先を毛布《もうふ》に隠してしまうのはいつも容易ならぬ冒険である。常子は昨夜《ゆうべ》寝る前に『あなたはほんとうに寒がりね。腰へも毛皮を巻いていらっしゃるの?』と言った。ことによると俺の馬の脚も露見《ろけん》する時が来たのかも知れない。……」
 半三郎はこのほかにも幾多の危険に遭遇《そうぐう》した。それを一々|枚挙《まいきょ》するのはとうていわたしの堪《た》えるところではない。が、半三郎の日記の中でも最もわたしを驚かせたのは下《しも》に掲げる出来事である。
「二月×日 俺は今日|午休《ひるやす》みに隆福寺《りゅうふくじ》の古本屋《ふるぼんや》を覗《のぞ》きに行った。古本屋の前の日だまりには馬車が一台止まっている。もっとも西洋の馬車ではない。藍色《あいいろ》の幌《ほろ》を張った支那馬車である。馭者《ぎょしゃ》も勿論馬車の上に休んでいたのに違いない。が、俺は格別気にも止めずに古本屋の店へはいろうとした。するとその途端《とたん》である。馭者は鞭《むち》を鳴らせながら、「スオ、スオ」と声をかけた。「スオ、スオ」は馬を後《あと》にやる時に支那人の使う言葉である。馬車はこの言葉の終らぬうちにがたがた後へ下《さが》り出した。と同時に驚くまいことか! 俺も古本屋を前に見たまま、一足《ひとあし》ずつ後へ下り出した。この時の俺の心もちは恐怖と言うか、驚愕《きょうがく》と言うか、とうてい筆舌《ひつぜつ》に尽すことは出来ない。俺は徒《いたず》らに一足でも前へ出ようと努力しながら、しかも恐しい不可抗力のもとにやはり後へ下って行った。そのうちに馭者の「スオオ」と言ったのはまだしも俺のためには幸福である。俺は馬車の止まる拍子《ひょうし》にやっと後《あと》ずさりをやめることが出来た。しかし不思議はそれだけではない。俺はほっと一息しながら、思わず馬車の方へ目を転じた。すると馬は――馬車を牽《ひ》いていた葦毛《あしげ》の馬は何《なん》とも言われぬ嘶《いなな》きかたをした。何とも言われぬ?――いや、何とも言われぬではない。俺はその疳走《かんばし》った声の中に確かに馬の笑ったのを感じた。馬のみならず俺の喉《のど》もとにも嘶きに似たものがこみ上げるのを感じた。この声を出しては大変である。俺は両耳へ手をやるが早いか、一散《いっさん》にそこを逃げ出してしまった。……」
 けれども運命は半三郎のために最後の打撃を用意していた。と言うのはほかでもない。三月の末のある午頃《ひるごろ》、彼は突然彼の脚の躍《おど》ったり跳《は》ねたりするのを発見したのである。なぜ彼の馬の脚はこの時急に騒《さわ》ぎ出したか? その疑問に答えるためには半三郎の日記を調べなければならぬ。が、不幸にも彼の日記はちょうど最後の打撃を受ける一日前に終っている。ただ前後の事情により、大体の推測《すいそく》は下《くだ》せぬこともない。わたしは馬政紀《ばせいき》、馬記《ばき》、元享療牛馬駝集《げんきょうりょうぎゅうばだしゅう》、伯楽相馬経《はくらくそうばきょう》等の諸書に従い、彼の脚の興奮したのはこう言うためだったと確信している。――
 当日は烈《はげ》しい黄塵《こうじん》だった。黄塵とは蒙古《もうこ》の春風《し
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