何か口の中に読みはじめた。が、その帳簿をとざしたと思うと、前よりも一層驚いたように年とった支那人へ話しかけた。
「駄目《だめ》です。忍野半三郎君は三日前《みっかまえ》に死んでいます。」
「三日前に死んでいる?」
「しかも脚《あし》は腐《くさ》っています。両脚《りょうあし》とも腿《もも》から腐っています。」
半三郎はもう一度びっくりした。彼等の問答に従えば、第一に彼は死んでいる。第二に死後|三日《みっか》も経《へ》ている。第三に脚は腐っている。そんな莫迦《ばか》げたことのあるはずはない。現に彼の脚はこの通り、――彼は脚を早めるが早いか、思わずあっと大声を出した。大声を出したのも不思議ではない。折り目の正しい白ズボンに白靴《しろぐつ》をはいた彼の脚は窓からはいる風のために二つとも斜めに靡《なび》いている! 彼はこう言う光景を見た時、ほとんど彼の目を信じなかった。が、両手にさわって見ると、実際両脚とも、腿から下は空気を掴むのと同じことである。半三郎はとうとう尻《しり》もちをついた。同時にまた脚は――と言うよりもズボンはちょうどゴム風船のしなびたようにへなへなと床《ゆか》の上へ下りた。
「よろしい。よろしい。どうにかして上げますから。」
年とった支那人はこう言った後《のち》、まだ余憤《よふん》の消えないように若い下役《したやく》へ話しかけた。
「これは君の責任だ。好《い》いかね。君の責任だ。早速|上申書《じょうしんしょ》を出さなければならん。そこでだ。そこでヘンリイ・バレットは現在どこに行っているかね?」
「今調べたところによると、急に漢口《ハンカオ》へ出かけたようです。」
「では漢口《ハンカオ》へ電報を打ってヘンリイ・バレットの脚を取り寄せよう。」
「いや、それは駄目でしょう。漢口から脚の来るうちには忍野君の胴《どう》が腐ってしまいます。」
「困る。実に困る。」
年とった支那人は歎息《たんそく》した。何だか急に口髭《くちひげ》さえ一層だらりと下《さが》ったようである。
「これは君の責任だ。早速上申書を出さなければならん。生憎《あいにく》乗客は残っていまいね?」
「ええ、一時間ばかり前に立ってしまいました。もっとも馬ならば一匹いますが。」
「どこの馬かね?」
「徳勝門外《とくしょうもんがい》の馬市《うまいち》の馬です。今しがた死んだばかりですから。」
「じゃその馬の脚をつけよう。馬の脚でもないよりは好《い》い。ちょっと脚だけ持って来給え。」
二十《はたち》前後の支那人は大机の前を離れると、すうっとどこかへ出て行ってしまった。半三郎は三度《さんど》びっくりした。何《なん》でも今の話によると、馬の脚をつけられるらしい。馬の脚などになった日には大変である。彼は尻もちをついたまま、年とった支那人に歎願した。
「もしもし、馬の脚だけは勘忍《かんにん》して下さい。わたしは馬は大嫌《だいきら》いなのです。どうか後生《ごしょう》一生のお願いですから、人間の脚をつけて下さい。ヘンリイ何《なん》とかの脚でもかまいません。少々くらい毛脛《けずね》でも人間の脚ならば我慢《がまん》しますから。」
年とった支那人は気の毒そうに半三郎を見下《みおろ》しながら、何度も点頭《てんとう》を繰り返した。
「それはあるならばつけて上げます。しかし人間の脚はないのですから。――まあ、災難《さいなん》とお諦《あきら》めなさい。しかし馬の脚は丈夫ですよ。時々|蹄鉄《ていてつ》を打ちかえれば、どんな山道でも平気ですよ。……」
するともう若い下役《したやく》は馬の脚を二本ぶら下げたなり、すうっとまたどこかからはいって来た。ちょうどホテルの給仕などの長靴《ながぐつ》を持って来るのと同じことである。半三郎は逃げようとした。しかし両脚のない悲しさには容易に腰を上げることも出来ない。そのうちに下役は彼の側《そば》へ来ると、白靴や靴下《くつした》を外《はず》し出した。
「それはいけない。馬の脚だけはよしてくれ給え。第一僕の承認を経《へ》ずに僕の脚を修繕《しゅうぜん》する法はない。……」
半三郎のこう喚《わめ》いているうちに下役はズボンの右の穴へ馬の脚を一本さしこんだ。馬の脚は歯でもあるように右の腿《もも》へ食《く》らいついた。それから今度は左の穴へもう一本の脚をさしこんだ。これもまたかぷりと食らいついた。
「さあ、それでよろしい。」
二十前後の支那人は満足の微笑を浮かべながら、爪の長い両手をすり合せている。半三郎はぼんやり彼の脚を眺めた。するといつか白ズボンの先には太い栗毛《くりげ》の馬の脚が二本、ちゃんともう蹄《ひづめ》を並べている。――
半三郎はここまで覚えている。少くともその先はここまでのようにはっきりと記憶には残っていない。何《なん》だか二人の支那人と喧嘩したようにも
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