芭蕉雑記
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)七部集《しちぶしふ》
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(例)其|風体《ふうたい》の句々をえらび
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+檀のつくり」、第3水準1−94−53]
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一 著書
芭蕉は一巻の書も著はしたことはない。所謂芭蕉の七部集《しちぶしふ》なるものも悉《ことごとく》門人の著はしたものである。これは芭蕉自身の言葉によれば、名聞《みやうもん》を好まぬ為だつたらしい。
「曲翠《きよくすゐ》問《とふ》、発句《ほつく》を取りあつめ、集作ると云へる、此道の執心《しふしん》なるべきや。翁《をう》曰《いはく》、これ卑しき心より我《わが》上手《じやうず》なるを知られんと我を忘れたる名聞より出《いづ》る事也。」
かう云つたのも一応は尤もである。しかしその次を読んで見れば、おのづから微笑を禁じ得ない。
「集とは其|風体《ふうたい》の句々をえらび、我風体と云ふことを知らするまで也。我俳諧撰集の心なし[#「我俳諧撰集の心なし」に傍点]。しかしながら貞徳《ていとく》以来其人々の風体ありて、宗因《そういん》まで俳諧を唱《となへ》来れり。然《しかれ》ども我《わが》云《いふ》所《ところ》の俳諧は其俳諧にはことなりと云ふことにて、荷兮野水《かけいやすゐ》等に後見《うしろみ》して『冬の日』『春の日』『あら野』等あり。」
芭蕉の説に従へば、蕉風の集を著はすのは名聞を求めぬことであり、芭蕉の集を著はすのは名聞を求めることである。然らば如何なる流派にも属せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に従へば、たとへば斎藤茂吉氏の「アララギ」へ歌を発表するのは名聞を求めぬことであり、「赤光」や「あら玉」を著はすのは「これ卑しき心より我上手なるを知られんと……」である!
しかし又芭蕉はかう云つてゐる。――「我俳諧撰集の心なし。」芭蕉の説に従へば、七部集の監修をしたのは名聞を離れた仕業である。しかもそれを好まなかつたと云ふのは何か名聞嫌ひの外にも理由のあつたことと思はなければならぬ。然らばこの「何か」は何だつたであらうか?
芭蕉は大事の俳諧さへ「生涯の道の草」と云つたさうである。すると七部集の監修をするのも「空《くう》」と考へはしなかつたであらうか? 同時に又集を著はすのさへ、実は「悪」と考へる前に「空」と考へはしなかつたであらうか? 寒山《かんざん》は木の葉に詩を題した。が、その木の葉を集めることには余り熱心でもなかつたやうである。芭蕉もやはり木の葉のやうに、一千余句の俳諧は流転《るてん》に任せたのではなかつたであらうか? 少くとも芭蕉の心の奥にはいつもさう云ふ心もちの潜んでゐたのではなかつたであらうか?
僕は芭蕉に著書のなかつたのも当然のことと思つてゐる。その上宗匠の生涯には印税の必要もなかつたではないか?
二 装幀
芭蕉は俳書を上梓《じやうし》する上にも、いろいろ註文を持つてゐたらしい。たとへば本文の書きざまにはかう云ふ言葉を洩らしてゐる。
「書《かき》やうはいろいろあるべし。唯さわがしからぬ心づかひ有りたし。『猿簔《さるみの》』能筆なり。されども今少し大《おほい》なり。作者の名|大《だい》にていやしく見え侍《はべ》る。」
又|勝峯晉風《かつみねしんぷう》氏の教へによれば、俳書の装幀《さうてい》も芭蕉以前は華美を好んだのにも関らず、芭蕉以後は簡素の中に寂《さ》びを尊んだと云ふことである。芭蕉も今日に生れたとすれば、やはり本文は九ポイントにするとか、表紙の布《きれ》は木綿にするとか、考案を凝《こ》らしたことであらう。或は又ウイリアム・モリスのやうに、ペエトロン杉風《さんぷう》とも相談の上に、Typography に新意を出したかも知れぬ。
三 自釈
芭蕉は北枝《ほくし》との問答の中に、「我句を人に説くは我頬がまちを人に云《いふ》がごとし」と作品の自釈を却《しりぞ》けてゐる。しかしこれは当にならぬ。さう云ふ芭蕉も他の門人にはのべつに自釈を試みてゐる。時には大いに苦心したなどと手前味噌《てまへみそ》さへあげぬことはない。
「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店《たな》。此句、翁曰、心づかひせずと句になるものを、自讃に足らずとなり。又かまくらを生《いき》て出でけん初松魚《はつがつを》と云ふこそ心の骨折《ほねをり》人の知らぬ所なり。又曰猿の歯白し峰の月といふは其角《きかく》なり。塩鯛の歯ぐきは我老吟なり。下《しも》を魚の店と唯いひたるもおのづから句なりと宣《のたま》へり。」
まことに「我句を人に説くは我頬がまちを人に云がごとし」である。しかし芸術は頬がまちほど、何《なん》びとにもはつきりわかるものではない。いつも自作に自釈を加へるバアナアド・シヨウの心もちは芭蕉も亦多少は同感だつたであらう。
四 詩人
「俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり」とは芭蕉の惟然《ゐねん》に語つた言葉である。その他俳諧を軽んじた口吻《こうふん》は時々門人に洩らしたらしい。これは人生を大夢と信じた世捨人の芭蕉には寧《むし》ろ当然の言葉である。
しかしその「生涯の道の草」に芭蕉ほど真剣になつた人は滅多《めつた》にゐないのに違ひない。いや、芭蕉の気の入れかたを見れば、「生涯の道の草」などと称したのはポオズではないかと思ふ位である。
「土芳《とはう》云《いふ》、翁|曰《いはく》、学ぶ事は常にあり。席に臨んで文台と我と間《かん》に髪《はつ》を入れず。思ふこと速《すみやか》に云《いひ》出《いで》て、爰《ここ》に至《いたり》てまよふ念なし。文台引おろせば即|反故《ほご》なりときびしく示さるる詞《ことば》もあり。或時は大木倒すごとし。鍔本《つばもと》にきりこむ心得、西瓜きるごとし。梨子《なし》くふ口つき、三十六句みなやり句などといろいろにせめられ侍《はべ》るも、みな巧者の私意を思ひ破らせんの詞《ことば》なり。」
この芭蕉の言葉の気ぐみは殆ど剣術でも教へるやうである。到底俳諧を遊戯にした世捨人などの言葉ではない。更に又芭蕉その人の句作に臨んだ態度を見れば、愈情熱に燃え立つてゐる。
「許六《きよろく》云、一とせ江戸にて何がしが歳旦びらきとて翁を招きたることあり。予が宅に四五日逗留の後にて侍る。其日雪降て暮にまゐられたり。其俳諧に、
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人声の沖にて何を呼《よぶ》やらん 桃鄰
鼠は舟をきしる暁 翁
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予其後芭蕉庵へ参《まゐり》とぶらひける時、此句をかたり出し給ふに、予が云、さてさて此暁の一字ありがたき事、あだに聞かんは無念の次第也。動かざること、大山のごとしと申せば師起き上りて曰、此暁の一字聞きとどけ侍りて、愚老が満足かぎりなし。此句はじめは
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須磨の鼠の舟きしるおと
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と案じける時、前句に声の字|有《あり》て、音の字ならず、依て作りかへたり、須磨の鼠とまでは気を廻《めぐら》し侍れども、一句連続せざると宣《のたま》へり。予が云、是須磨の鼠よりはるかにまされり。(中略)暁の一字つよきこと、たとへ侍るものなしと申せば、師もうれしく思はれけん、これほどに聞《きき》てくれる人なし、唯予が口よりいひ出せば[#「唯予が口よりいひ出せば」に傍点]、肝をつぶしたる顔のみにて[#「肝をつぶしたる顔のみにて」に傍点]、善悪の差別もなく[#「善悪の差別もなく」に傍点]、鮒の泥に酔たるごとし[#「鮒の泥に酔たるごとし」に傍点]、其夜此句したる時[#「其夜此句したる時」に傍点]、一座のものどもに我遅参の罪ありと云へども[#「一座のものどもに我遅参の罪ありと云へども」に傍点]、此句にて腹を医せよと自慢せしと宣ひ侍る[#「此句にて腹を医せよと自慢せしと宣ひ侍る」に傍点]。」
知己に対する感激、流俗に対する軽蔑、芸術に対する情熱、――詩人たる芭蕉の面目はありありとこの逸話に露《あら》はれてゐる。殊に「この句にて腹を医《いや》せよ」と大気焔を挙げた勢ひには、――世捨人は少時《しばらく》問はぬ。敬虔《けいけん》なる今日の批評家さへ辟易《へきえき》しなければ幸福である。
「翁|凡兆《ぼんてう》に告て曰、一世のうち秀逸|三五《さんご》あらん人は作者、十句に及ぶ人は名人なり。」
名人さへ一生を消磨した後、十句しか得られぬと云ふことになると、俳諧も亦閑事業ではない。しかも芭蕉の説によれば、つまりは「生涯の道の草」である!
「十一日。朝またまた時雨《しぐれ》す。思ひがけなく東武《とうぶ》の其角《きかく》来る。(中略)すぐに病床にまゐりて、皮骨《ひこつ》連立《れんりつ》したまひたる体を見まゐらせて、且愁ひ、且悦ぶ。師も見やりたまひたるまでにて、ただただ涙ぐみたまふ。(中略)
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鬮《くじ》とりて菜飯《なめし》たたかす夜伽《よとぎ》かな 木節
皆子なり蓑虫《みのむし》寒く鳴きつくす 乙州
うづくまる薬のもとの寒さかな 丈艸
吹井《ふきゐ》より鶴をまねかん初|時雨《しぐれ》 其角
[#ここで字下げ終わり]
一々|惟然《ゐねん》吟声しければ、師|丈艸《ぢやうさう》が句を今一度と望みたまひて、丈艸でかされたり、いつ聞いてもさびしをり整ひたり、面白し面白しと、しは嗄《が》れし声もて讃めたまひにけり。」
これは芭蕉の示寂《じじやく》前一日に起つた出来事である。芭蕉の俳諧に執する心は死よりもなほ強かつたらしい。もしあらゆる執着に罪障を見出した謡曲の作者にこの一段を語つたとすれば、芭蕉は必ず行脚《あんぎや》の僧に地獄の苦艱を訴へる後《のち》ジテの役を与へられたであらう。
かう云ふ情熱を世捨人に見るのは矛盾と云へば矛盾である。しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか? ゲエテは詩作をしてゐる時には Daemon に憑《つ》かれてゐると云つた。芭蕉も亦世捨人になるには余りに詩魔の翻弄《ほんろう》を蒙《かうむ》つてゐたのではないであらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか?
僕は世捨人になり了《おほ》せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。さもなければ深草《ふかくさ》の元政《げんせい》などにも同じやうに敬意を表したかも知れぬ。
五 未来
「翁|遷化《せんげ》の年深川を出《いで》給ふ時、野坡《やは》問《とう》て云《いふ》、俳諧やはり今のごとく作し侍らんや。翁曰、しばらく今の風なるべし、五七《ごしち》年も過なば一変あらんとなり。」
「翁曰、俳諧世に三合は出《いで》たり。七合は残《のこり》たりと申されけり。」
かう云ふ芭蕉の逸話を見ると、如何にも芭蕉は未来の俳諧を歴々と見透してゐたやうである。又大勢の門人の中には義理にも一変したいと工夫したり、残りの七合を拵《こしら》へるものは自分の外にないと己惚《うぬぼ》れたり、いろいろの喜劇も起つたかも知れぬ。しかしこれは「芭蕉自身の明日」を指した言葉であらう。と云ふのはつまり五六年も経《ふ》れば、芭蕉自身の俳諧は一変化すると云ふ意味であらう。或は又既に公《おほやけ》にしたのは僅々三合の俳諧に過ぎぬ、残りの七合の俳諧は芭蕉自身の胸中に横はつてゐると云ふ意味であらう。すると芭蕉以外の人には五六年は勿論、三百年たつても、一変化することは出来ぬかも知れぬ。七合の俳諧も同じことである。芭蕉は妄《みだり》に街頭の売卜《ばいぼく》先生を真似る人ではない。けれども絶えず芭蕉自身の進歩を感じてゐたことは確かである。――僕はかう信じて疑つたことはない。
六 俗語
芭蕉はその俳諧の中に屡《しばしば》俗語を用ひてゐる。たとへば下《しも》の句に徴《ちよう》するが好い。
[#こ
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