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  洗馬《せば》にて
梅雨《つゆ》ばれの私雨《わたくしあめ》や雲ちぎれ
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「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉《ことごとく》俗語ならぬはない。しかも一句の客情《かくじやう》は無限の寂しみに溢《あふ》れてゐる。(成程かう書いて見ると、不世出の天才を褒《ほ》め揚《あ》げるほど手数のかからぬ仕事はない。殊に何びとも異論を唱へぬ古典的天才を褒め揚げるのは!)かう云ふ例は芭蕉の句中、枚挙《まいきよ》に堪へぬと云つても好い。芭蕉のみづから「俳諧の益は俗語を正すなり」と傲語《がうご》したのも当然のことと云はなければならぬ。「正す」とは文法の教師のやうに語格や仮名遣ひを正すのではない。霊活《れいくわつ》に語感を捉へた上、俗語に魂を与へることである。
「じだらくに居れば涼しき夕《ゆふべ》かな。宗次《そうじ》。猿みの撰の時、宗次今一句の入集を願ひて数句吟じ侍れど取《とる》べき句なし。一夕《いつせき》、翁の側《かたはら》に侍りけるに、いざくつろぎ給へ、我も臥《ふし》なんと宣《のたま》ふ。御ゆるし候へ、じだらくに居れば涼しく侍ると申しければ、翁曰、これこそ発句なれとて、今の句に作《つくり》て入集せさせ給ひけり。」(小宮豊隆氏はこの逸話に興味のある解釈を加へてゐる。同氏の芭蕉研究を参照するが好い。)
 この時使はれた「じだらくに」はもう単純なる俗語ではない。紅毛人の言葉を借りれば、芭蕉の情調のトレモロを如実に表現した詩語である。これを更に云ひ直せば、芭蕉の俗語を用ひたのは俗語たるが故に用ひたのではない。詩語たり得るが故に用ひたのである。すると芭蕉は詩語たり得る限り、漢語たると雅語たるとを問はず、如何なる言葉をも用ひたことは弁ずるを待たぬのに違ひない。実際又芭蕉は俗語のみならず、漢語をも雅語をも正したのである。
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  佐夜《さよ》の中山《なかやま》にて
命なり[#「命なり」に傍点]わづかの笠の下涼み
  杜牧《とぼく》が早行《さうかう》の残夢、小夜の
  中山にいたりて忽ち驚く
馬に寝て残夢月遠し[#「残夢月遠し」に傍点]茶のけぶり
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 芭蕉の語彙《ごゐ》はこの通り古今東西に出入してゐる。が、俗語を正したことは最も人目に止まり易い特色だつたのに違ひない。又俗語を正したことに詩人たる芭蕉の大力量も窺《うかが》はれることは事実である。成程|談林《だんりん》の諸俳人は、――いや、伊丹《いたみ》の鬼貫《おにつら》さへ芭蕉よりも一足先に俗語を使つてゐたかも知れぬ。けれども所謂平談俗話に錬金術を施《ほどこ》したのは正に芭蕉の大手柄である。
 しかしこの著しい特色は同時に又俳諧に対する誤解を生むことにもなつたらしい。その一つは俳諧を解し易いとした誤解であり、その二つは俳諧を作り易いとした誤解である。俳諧の月並みに堕《だ》したのは、――そんなことは今更弁ぜずとも好い。月並みの喜劇は「芭蕉雑談」の中に子規|居士《こじ》も既に指摘してゐる。唯芭蕉の使つた俗語の精彩を帯びてゐたことだけは今日もなほ力説せねばならぬ。さもなければ所謂民衆詩人は不幸なるウオルト・ホイツトマンと共に、芭蕉をも彼等の先達の一人に数へ上げることを憚《はばか》らぬであらう。

     七 耳

 芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。
 俳諧は元来歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。僅々十七字の活殺の中に「言葉の音楽」をも伝へることは大力量の人を待たなければならぬ。のみならず「調べ」にのみ執《しふ》するのは俳諧の本道を失したものである。芭蕉の「調べ」を後にせよと云つたのはこの間の消息を語るものであらう。しかし芭蕉自身の俳諧は滅多に「調べ」を忘れたことはない。いや、時には一句の妙を「調べ」にのみ託したものさへある。
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夏の月|御油《ごゆ》より出でて赤坂《あかさか》や
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 これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少|陳套《ちんたう》の譏《そし》りを招きかねぬ技巧であらう。しかし耳に与へる効果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる。
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年の市線香買ひに出でばやな
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 仮に「夏の月」の句をリブレツトオよりもスコアアのすぐれてゐる句とするならば、この句の如きは両者ともに傑出したものの一例である。年の市《いち》に線香を買ひに出るのは物寂びたとは云ふものの、懐しい気もちにも違ひない。その上「出でばやな」とはずみかけた調子は、宛然芭蕉その人の心の小躍《こをど》りを見るやうである。更に又下の句などを見れば、芭蕉の「調べ」を駆使するのに大自在を極めてゐたことには呆気《あつけ》にとられてしまふ外はない。
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秋ふかき隣は何をする人ぞ
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 かう云ふ荘重の「調べ」を捉《とら》へ得たものは茫々たる三百年間にたつた芭蕉一人である。芭蕉は子弟を訓《をし》へるのに「俳諧は万葉集の心なり」と云つた。この言葉は少しも大風呂敷ではない。芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけねばならぬ所以《ゆゑん》である。

     八 同上

 芭蕉の俳諧の特色の一つは目に訴へる美しさと耳に訴へる美しさとの微妙に融け合つた美しさである。西洋人の言葉を借りれば、言葉の Formal element と Musical element との融合の上に独特の妙のあることである。これだけは蕪村《ぶそん》の大手腕も畢《つひ》に追随出来なかつたらしい。下《しも》に挙げるのは几董《きとう》の編した蕪村句集に載つてゐる春雨の句の全部である。
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春雨やものかたりゆく蓑《みの》と笠
春雨や暮れなんとしてけふもあり
柴漬《ふしづけ》や沈みもやらで春の雨
春雨やいざよふ月の海半ば
春雨や綱が袂に小提灯《こぢやうちん》
  西の京にばけもの栖《す》みて久しく
  あれ果たる家有りけり。
  今は其沙汰なくて、
春雨や人住みて煙《けぶり》壁を洩る
物種《ものだね》の袋濡らしつ春の雨
春雨や身にふる頭巾《づきん》着たりけり
春雨や小磯の小貝濡るるほど
滝口《たきぐち》に灯を呼ぶ声や春の雨
ぬなは生《お》ふ池の水《み》かさや春の雨
  夢中吟
春雨やもの書かぬ身のあはれなる
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 この蕪村の十二句は目に訴へる美しさを、――殊に大和絵らしい美しさを如何にものびのびと表はしてゐる。しかし耳に訴へて見ると、どうもさほどのびのびとしない。おまけに十二句を続けさまに読めば、同じ「調べ」を繰り返した単調さを感ずる憾《うら》みさへある。が、芭蕉はかう云ふ難所に少しも渋滞《じふたい》を感じてゐない。
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春雨や蓬《よもぎ》をのばす草の道
  赤坂にて
無性《ぶしやう》さやかき起されし春の雨
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 僕はこの芭蕉の二句の中《うち》に百年の春雨を感じてゐる。「蓬をのばす草の道」の気品の高いのは云ふを待たぬ。「無性さや」に起り、「かき起されし」とたゆたつた「調べ」にも柔媚《じうび》に近い懶《ものう》さを表はしてゐる。所詮蕪村の十二句もこの芭蕉の二句の前には如何《いかん》とも出来ぬと評する外はない。兎に角芭蕉の芸術的感覚は近代人などと称するものよりも、数等の洗練を受けてゐたのである。

     九 画

 東洋の詩歌は和漢を問はず、屡《しばしば》画趣を命にしてゐる。エポスに詩を発した西洋人はこの「有声の画」の上にも邪道の貼り札をするかも知れぬ。しかし「遙知郡斎夜《ハルカニシルグンサイノヨ》 凍雪封松竹《トウセツシヨウチクヲフウズ》 時有山僧来《トキニサンソウノキタルアリ》 懸燈独自宿《トウヲカケテドクジシユクス》」は宛然たる一幀《いつたう》の南画である。又「蔵並ぶ裏は燕のかよひ道」もおのづから浮世絵の一枚らしい。この画趣を表はすのに自在の手腕を持つてゐたのもやはり芭蕉の俳諧に見のがされぬ特色の一つである。
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涼しさやすぐに野松の枝のなり
夕顔や酔《ゑう》て顔出す窓《まど》の穴
山賤《やまがつ》のおとがひ閉づる葎《むぐら》かな
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 第一は純然たる風景画である。第二は点景人物を加へた風景画である。第三は純然たる人物画である。この芭蕉の三様の画趣はいづれも気品の低いものではない。殊に「山賤の」は「おとがひ閉づる」に気味の悪い大きさを表はしてゐる。かう云ふ画趣を表現することは蕪村さへ数歩を遜《ゆづ》らなければならぬ。(度《たび》たび引合ひに出されるのは蕪村の為に気の毒である。が、これも芭蕉以後の巨匠だつた因果と思はなければならぬ。)のみならず最も蕪村らしい大和画の趣を表はす時にも、芭蕉はやはり楽々と蕪村に負けぬ効果を収めてゐる。
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粽《ちまき》ゆふ片手にはさむひたひ髪
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 芭蕉自身はこの句のことを「物語の体《たい》」と称したさうである。

     十 衆道

 芭蕉もシエクスピイアやミケル・アンジエロのやうに衆道《しゆだう》を好んだと云はれてゐる。この談《はなし》は必しも架空ではない。元禄は井原西鶴の大鑑《おほかがみ》を生んだ時代である。芭蕉も亦或は時代と共に分桃《ぶんたう》の契《ちぎ》りを愛したかも知れない。現に又「我も昔は衆道好きのひが耳にや」とは若い芭蕉の筆を執つた「貝おほひ」の中の言葉である。その他芭蕉の作品の中には「前髪もまだ若草の匂かな」以下、美少年を歌つたものもない訳ではない。
 しかし芭蕉の性慾を倒錯《たうさく》してゐたと考へるのは依然として僕には不可能である。成程芭蕉は明らかに「我も昔は衆道好き」と云つた。が、第一にこの言葉は巧みに諧謔の筆を弄《ろう》した「貝おほひ」の判詞《はんのことば》の一節である。するとこれをものものしい告白のやうに取り扱ふのは多少の早計ではないであらうか? 第二によし又告白だつたにせよ、案外昔の衆道好きは今の衆道好きではなかつたかも知れない。いや、今も衆道好きだつたとすれば、何も特に「昔は」と断る必要もない筈である。しかも芭蕉は「貝おほひ」を出した寛文十一年の正月にもやつと二十九歳だつたのを思ふと、昔と云ふのも「春の目ざめ」以後数年の間を指してゐるであらう。かう云ふ年頃の Homo−Sexuality は格別珍らしいことではない。二十世紀に生れた我々さへ、少時《せうじ》の性慾生活をふり返つて見れば、大抵一度は美少年に恍惚とした記憶を蓄へてゐる。況《いはん》や門人の杜国《とこく》との間に同性愛のあつたなどと云ふ説は畢竟《ひつきやう》小説と云ふ外はない。

     十一 海彼岸の文学

「或禅僧、詩の事を尋ねられしに、翁|曰《いはく》、詩の事は隠士素堂《いんしそだう》と云ふもの此道に深きすきものにて、人の名を知れるなり。かれ常に云ふ、詩は隠者の詩、風雅にてよろし。」
「正秀《せいしう》問《とふ》、古今集に空に知られぬ雪ぞ降りける、人に知られぬ花や咲くらん、春に知られぬ花ぞ咲くなる、一集にこの三首を撰す。一集一作者にかやうの事|例《ためし》あるにや。翁曰、貫之《つらゆき》の好める言葉と見えたり。かやうの事は今の人の嫌ふべきを、昔は嫌はずと見えたり。もろこしの詩にも左様の例《ためし》あるにや。いつぞや丈艸の物語に杜子美《としび》に専ら其事あり。近き詩人に于鱗《うりん》とやらんの詩に多く有る事とて、其詩も、聞きつれど忘れたり。」
 于鱗は嘉靖七子《かせいしちし》の一人|李攀竜《りはんりよう》のことであらう。古文辞を唱へた李攀竜の芭蕉の話中に挙げられてゐるのは杜甫に対する芭蕉の尊敬に一道の光明を与へるものである。しかしそれはまづ問はない
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