の俳諧に執する心は死よりもなほ強かつたらしい。もしあらゆる執着に罪障を見出した謡曲の作者にこの一段を語つたとすれば、芭蕉は必ず行脚《あんぎや》の僧に地獄の苦艱を訴へる後《のち》ジテの役を与へられたであらう。
かう云ふ情熱を世捨人に見るのは矛盾と云へば矛盾である。しかしこれは矛盾にもせよ、たまたま芭蕉の天才を物語るものではないであらうか? ゲエテは詩作をしてゐる時には Daemon に憑《つ》かれてゐると云つた。芭蕉も亦世捨人になるには余りに詩魔の翻弄《ほんろう》を蒙《かうむ》つてゐたのではないであらうか? つまり芭蕉の中の詩人は芭蕉の中の世捨人よりも力強かつたのではないであらうか?
僕は世捨人になり了《おほ》せなかつた芭蕉の矛盾を愛してゐる。同時に又その矛盾の大きかつたことも愛してゐる。さもなければ深草《ふかくさ》の元政《げんせい》などにも同じやうに敬意を表したかも知れぬ。
五 未来
「翁|遷化《せんげ》の年深川を出《いで》給ふ時、野坡《やは》問《とう》て云《いふ》、俳諧やはり今のごとく作し侍らんや。翁曰、しばらく今の風なるべし、五七《ごしち》年も過なば一変あらんとなり。」
「翁曰、俳諧世に三合は出《いで》たり。七合は残《のこり》たりと申されけり。」
かう云ふ芭蕉の逸話を見ると、如何にも芭蕉は未来の俳諧を歴々と見透してゐたやうである。又大勢の門人の中には義理にも一変したいと工夫したり、残りの七合を拵《こしら》へるものは自分の外にないと己惚《うぬぼ》れたり、いろいろの喜劇も起つたかも知れぬ。しかしこれは「芭蕉自身の明日」を指した言葉であらう。と云ふのはつまり五六年も経《ふ》れば、芭蕉自身の俳諧は一変化すると云ふ意味であらう。或は又既に公《おほやけ》にしたのは僅々三合の俳諧に過ぎぬ、残りの七合の俳諧は芭蕉自身の胸中に横はつてゐると云ふ意味であらう。すると芭蕉以外の人には五六年は勿論、三百年たつても、一変化することは出来ぬかも知れぬ。七合の俳諧も同じことである。芭蕉は妄《みだり》に街頭の売卜《ばいぼく》先生を真似る人ではない。けれども絶えず芭蕉自身の進歩を感じてゐたことは確かである。――僕はかう信じて疑つたことはない。
六 俗語
芭蕉はその俳諧の中に屡《しばしば》俗語を用ひてゐる。たとへば下《しも》の句に徴《ちよう》するが好い。
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洗馬《せば》にて
梅雨《つゆ》ばれの私雨《わたくしあめ》や雲ちぎれ
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「梅雨ばれ」と云ひ、「私雨」と云ひ、「雲ちぎれ」と云ひ、悉《ことごとく》俗語ならぬはない。しかも一句の客情《かくじやう》は無限の寂しみに溢《あふ》れてゐる。(成程かう書いて見ると、不世出の天才を褒《ほ》め揚《あ》げるほど手数のかからぬ仕事はない。殊に何びとも異論を唱へぬ古典的天才を褒め揚げるのは!)かう云ふ例は芭蕉の句中、枚挙《まいきよ》に堪へぬと云つても好い。芭蕉のみづから「俳諧の益は俗語を正すなり」と傲語《がうご》したのも当然のことと云はなければならぬ。「正す」とは文法の教師のやうに語格や仮名遣ひを正すのではない。霊活《れいくわつ》に語感を捉へた上、俗語に魂を与へることである。
「じだらくに居れば涼しき夕《ゆふべ》かな。宗次《そうじ》。猿みの撰の時、宗次今一句の入集を願ひて数句吟じ侍れど取《とる》べき句なし。一夕《いつせき》、翁の側《かたはら》に侍りけるに、いざくつろぎ給へ、我も臥《ふし》なんと宣《のたま》ふ。御ゆるし候へ、じだらくに居れば涼しく侍ると申しければ、翁曰、これこそ発句なれとて、今の句に作《つくり》て入集せさせ給ひけり。」(小宮豊隆氏はこの逸話に興味のある解釈を加へてゐる。同氏の芭蕉研究を参照するが好い。)
この時使はれた「じだらくに」はもう単純なる俗語ではない。紅毛人の言葉を借りれば、芭蕉の情調のトレモロを如実に表現した詩語である。これを更に云ひ直せば、芭蕉の俗語を用ひたのは俗語たるが故に用ひたのではない。詩語たり得るが故に用ひたのである。すると芭蕉は詩語たり得る限り、漢語たると雅語たるとを問はず、如何なる言葉をも用ひたことは弁ずるを待たぬのに違ひない。実際又芭蕉は俗語のみならず、漢語をも雅語をも正したのである。
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佐夜《さよ》の中山《なかやま》にて
命なり[#「命なり」に傍点]わづかの笠の下涼み
杜牧《とぼく》が早行《さうかう》の残夢、小夜の
中山にいたりて忽ち驚く
馬に寝て残夢月遠し[#「残夢月遠し」に傍点]茶のけぶり
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芭蕉の語彙《ごゐ》はこの通り古今東西に出入してゐる。が、俗語を正したことは最も人目に止まり易い特色だつたのに違ひない。又俗語を正したことに詩人たる芭蕉
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