の大力量も窺《うかが》はれることは事実である。成程|談林《だんりん》の諸俳人は、――いや、伊丹《いたみ》の鬼貫《おにつら》さへ芭蕉よりも一足先に俗語を使つてゐたかも知れぬ。けれども所謂平談俗話に錬金術を施《ほどこ》したのは正に芭蕉の大手柄である。
 しかしこの著しい特色は同時に又俳諧に対する誤解を生むことにもなつたらしい。その一つは俳諧を解し易いとした誤解であり、その二つは俳諧を作り易いとした誤解である。俳諧の月並みに堕《だ》したのは、――そんなことは今更弁ぜずとも好い。月並みの喜劇は「芭蕉雑談」の中に子規|居士《こじ》も既に指摘してゐる。唯芭蕉の使つた俗語の精彩を帯びてゐたことだけは今日もなほ力説せねばならぬ。さもなければ所謂民衆詩人は不幸なるウオルト・ホイツトマンと共に、芭蕉をも彼等の先達の一人に数へ上げることを憚《はばか》らぬであらう。

     七 耳

 芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だつたとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであらう。
 俳諧は元来歌よりも「調べ」に乏しいものでもある。僅々十七字の活殺の中に「言葉の音楽」をも伝へることは大力量の人を待たなければならぬ。のみならず「調べ」にのみ執《しふ》するのは俳諧の本道を失したものである。芭蕉の「調べ」を後にせよと云つたのはこの間の消息を語るものであらう。しかし芭蕉自身の俳諧は滅多に「調べ」を忘れたことはない。いや、時には一句の妙を「調べ」にのみ託したものさへある。
[#ここから3字下げ]
夏の月|御油《ごゆ》より出でて赤坂《あかさか》や
[#ここで字下げ終わり]
 これは夏の月を写すために、「御油」「赤坂」等の地名の与へる色彩の感じを用ひたものである。この手段は少しも珍らしいとは云はれぬ。寧ろ多少|陳套《ちんたう》の譏《そし》りを招きかねぬ技巧であらう。しかし耳に与へる効果は如何にも旅人の心らしい、悠々とした美しさに溢れてゐる。
[#ここから3字下げ]
年の市線香買ひに出でばやな
[#ここで字下げ終わり]
 仮に「夏の月」の句をリブレツトオよりもスコアアのすぐれてゐる句とするならば、この句の如きは両者ともに傑出したものの一例である。年の市《いち》に線香を買ひに出るのは物寂びたとは云ふものの、懐しい気もちにも違ひない。その上「出でばやな」とはずみかけた調子は、宛然芭蕉その人の心の小躍《こをど》りを見るやうである。更に又下の句などを見れば、芭蕉の「調べ」を駆使するのに大自在を極めてゐたことには呆気《あつけ》にとられてしまふ外はない。
[#ここから3字下げ]
秋ふかき隣は何をする人ぞ
[#ここで字下げ終わり]
 かう云ふ荘重の「調べ」を捉《とら》へ得たものは茫々たる三百年間にたつた芭蕉一人である。芭蕉は子弟を訓《をし》へるのに「俳諧は万葉集の心なり」と云つた。この言葉は少しも大風呂敷ではない。芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけねばならぬ所以《ゆゑん》である。

     八 同上

 芭蕉の俳諧の特色の一つは目に訴へる美しさと耳に訴へる美しさとの微妙に融け合つた美しさである。西洋人の言葉を借りれば、言葉の Formal element と Musical element との融合の上に独特の妙のあることである。これだけは蕪村《ぶそん》の大手腕も畢《つひ》に追随出来なかつたらしい。下《しも》に挙げるのは几董《きとう》の編した蕪村句集に載つてゐる春雨の句の全部である。
[#ここから3字下げ]
春雨やものかたりゆく蓑《みの》と笠
春雨や暮れなんとしてけふもあり
柴漬《ふしづけ》や沈みもやらで春の雨
春雨やいざよふ月の海半ば
春雨や綱が袂に小提灯《こぢやうちん》
  西の京にばけもの栖《す》みて久しく
  あれ果たる家有りけり。
  今は其沙汰なくて、
春雨や人住みて煙《けぶり》壁を洩る
物種《ものだね》の袋濡らしつ春の雨
春雨や身にふる頭巾《づきん》着たりけり
春雨や小磯の小貝濡るるほど
滝口《たきぐち》に灯を呼ぶ声や春の雨
ぬなは生《お》ふ池の水《み》かさや春の雨
  夢中吟
春雨やもの書かぬ身のあはれなる
[#ここで字下げ終わり]
 この蕪村の十二句は目に訴へる美しさを、――殊に大和絵らしい美しさを如何にものびのびと表はしてゐる。しかし耳に訴へて見ると、どうもさほどのびのびとしない。おまけに十二句を続けさまに読めば、同じ「調べ」を繰り返した単調さを感ずる憾《うら》みさへある。が、芭蕉はかう云ふ難所に少しも渋滞《じふたい》を感じてゐない。
[#ここから3字下げ]
春雨や蓬《よもぎ》をのばす草の道
  赤坂にて
無性《ぶしやう》さやかき起されし春の雨
[#ここで字下げ終わり]
 僕はこの芭蕉の二句の中《う
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング