り]
是等の動詞の用法は海彼岸の文学の字眼《じがん》から学んだのではないであらうか? 字眼とは一字の工《こう》の為に一句を穎異《えいい》ならしめるものである。例へば下に引用する岑参《しんしん》の一聯に徴《ちよう》するがよい。
[#ここから3字下げ]
孤燈燃[#「燃」に白丸傍点]客夢 寒杵搗[#「搗」に白丸傍点]郷愁
[#ここで字下げ終わり]
けれども学んだと断言するのは勿論頗る危険である。芭蕉はおのづから海彼岸の詩人と同じ表現法を捉へたかも知れない。しかし下に挙げる一句もやはり暗合に外ならないであらうか?
[#ここから3字下げ]
鐘消えて[#「消えて」に傍点]花の香は撞く[#「撞く」に傍点]夕べかな
[#ここで字下げ終わり]
僕の信ずる所によれば、これは明らかに朱飲山《しゆいんさん》の所謂《いはゆる》倒装法を俳諧に用ひたものである。
[#ここから3字下げ]
紅稲[#「紅稲」に白丸傍点]啄残鸚鵡[#「鸚鵡」に白丸傍点]粒 碧梧[#「碧梧」に白丸傍点]棲老鳳凰[#「鳳凰」に白丸傍点]枝
[#ここで字下げ終わり]
上に挙げたのは倒装法を用ひた、名高い杜甫の一聯である。この一聯を尋常に云ひ下せば、「鸚鵡[#「鸚鵡」に白丸傍点]啄残紅稲[#「紅稲」に白丸傍点]粒 鳳凰[#「鳳凰」に白丸傍点]棲老碧梧[#「碧梧」に白丸傍点]枝」と名詞の位置を顛倒《てんたう》しなければならぬ。芭蕉の句も尋常に云ひ下せば、「鐘搗いて[#「搗いて」に傍点]花の香消ゆる[#「消ゆる」に傍点]夕べかな」と動詞の位置の顛倒する筈である。すると一は名詞であり、一は又動詞であるにもせよ、これを俳諧に試みた倒装法と考へるのは必しも独断とは称し難いであらう。
蕪村の海彼岸の文学に学ぶ所の多かつたことは前人も屡《しばしば》云ひ及んでゐる。が、芭蕉のはどう云ふものか、余り考へる人もゐなかつたらしい。(もし一人でもゐたとすれば、この「鐘消えて」の句のことなどはとうの昔に気づいてゐた筈である。)しかし延宝《えんぱう》天和《てんな》の間《かん》の芭蕉は誰でも知つてゐるやうに、「憶老杜《ラウトヲオモフ》、髭風《ヒゲカゼ》ヲ吹《フイ》テ暮秋《ボシウ》歎《タン》ズルハ誰《タ》ガ子《コ》ゾ」「夜着は重し呉天《ごてん》に雪を見るあらん」以下、多数に海彼岸の文学を飜案した作品を残してゐる。いや、そればかりではない。芭蕉は「虚栗《みなしぐり》」(天和三年上梓)の跋《ばつ》の後に「芭蕉洞[#「洞」に白丸傍点]桃青」と署名してゐる。「芭蕉庵[#「庵」に白丸傍点]桃青」は必しも海彼岸の文学を聯想せしめる雅号ではない。しかし「芭蕉洞[#「洞」に白丸傍点]桃青」は「凝烟肌帯緑映日瞼粧紅《ギヨウエンキミドリヲオビヒニエイジテケンクレナヰヲヨソホフ》」の詩中の趣《おもむき》を具へてゐる。(これは勝峯晉風氏も「芭蕉俳句定本」の年譜の中に「洞[#「洞」に白丸傍点]の一字を見落してならぬ」と云つてゐる。)すると芭蕉は――少くとも延宝天和の間の芭蕉は、海彼岸の文学に少なからず心酔してゐたと云はなければならぬ。或は多少の危険さへ冒《をか》せば、談林風の鬼窟裡《きくつり》に堕在《だざい》してゐた芭蕉の天才を開眼《かいげん》したものは、海彼岸の文学であるとも云はれるかも知れない。かう云ふ芭蕉の俳諧の中に、海彼岸の文学の痕跡のあるのは、勿論不思議がるには当らない筈である。偶《たまたま》、「芭蕉俳句定本」を読んでゐるうちに、海彼岸の文学の影響を考へたから、「芭蕉雑記」の後に加へることにした。
[#ここから2字下げ]
附記。芭蕉は夙《つと》に伊藤|坦庵《たんあん》、田中|桐江《とうかう》などの学者に漢学を学んだと伝へられてゐる。しかし芭蕉の蒙《かうむ》つた海彼岸の文学の影響は寧ろ好んで詩を作つた山口|素堂《そだう》に発するのかも知れない。
[#ここで字下げ終わり]
十二 詩人
蕉風の付《つ》け合《あひ》に関する議論は樋口|功《いさを》氏の「芭蕉研究」に頗《すこぶ》る明快に述べられてゐる。尤も僕は樋口氏のやうに、発句は蕉門の竜象《りゆうざう》を始め蕪村も甚だ芭蕉には劣つてゐなかつたとは信ぜられない。が、芭蕉の付け合の上に古今独歩の妙のあることはまことに樋口氏の議論の通りである。のみならず元禄の文芸復興の蕉風の付け合に反映してゐたと云ふのは如何にも同感と云はなければならぬ。
芭蕉は少しも時代の外に孤立してゐた詩人ではない。いや、寧ろ時代の中に全精神を投じた詩人である。たまたまその間口の広さの芭蕉の発句に現れないのはこれも樋口氏の指摘したやうに発句は唯「わたくし詩歌」を本道とした為と云はなければならぬ。蕪村はこの金鎖《きんさ》を破り、発句を自他|無差別《むしやべつ》の大千世界《だいせんせかい》へ解放した。「お
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング