ージ》と行かない内に、どう云う訳かその書物にたちまち愛想をつかしたごとく、邪慳《じゃけん》に畳の上へ抛《ほう》り出してしまった。と思うと今度は横坐《よこずわ》りに坐ったまま、机の上に頬杖《ほおづえ》をついて、壁の上のウイル――べエトオフェンの肖像を冷淡にぼんやり眺め出した。これは勿論唯事ではない。お君さんはあのカッフェを解傭《かいよう》される事になったのであろうか。さもなければお松さんのいじめ方が一層|悪辣《あくらつ》になったのであろうか。あるいはまたさもなければ齲歯《むしば》でも痛み出して来たのであろうか。いや、お君さんの心を支配しているのは、そう云う俗臭を帯びた事件ではない。お君さんは浪子夫人のごとく、あるいはまた松井須磨子のごとく、恋愛に苦しんでいるのである。ではお君さんは誰に心を寄せているかと云うと――幸《さいわい》お君さんは壁の上のベエトオフェンを眺めたまま、しばらくは身動きもしそうはないから、その間におれは大急ぎで、ちょいとこの光栄ある恋愛の相手を紹介しよう。
 お君さんの相手は田中《たなか》君と云って、無名の――まあ芸術家である。何故《なぜ》かと云うと田中君は、詩も作る、
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