芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)明日《みょうにち》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一気|呵成《かせい》に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]
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 おれは締切日を明日《みょうにち》に控えた今夜、一気|呵成《かせい》にこの小説を書こうと思う。いや、書こうと思うのではない。書かなければならなくなってしまったのである。では何を書くかと云うと、――それは次の本文を読んで頂くよりほかに仕方はない。

       ―――――――――――――――――――――――――

 神田《かんだ》神保町辺《じんぼうちょうへん》のあるカッフェに、お君《きみ》さんと云う女給仕がいる。年は十五とか十六とか云うが、見た所はもっと大人《おとな》らしい。何しろ色が白くって、眼が涼しいから、鼻の先が少し上を向いていても、とにかく一通りの美人である。それが髪をまん中から割って、忘れな草の簪《かんざし》をさして、白いエプロンをかけて、自働ピアノの前に立っている所は、とんと竹久夢二《たけひさゆめじ》君の画中の人物が抜け出したようだ。――とか何とか云う理由から、このカッフェの定連《じょうれん》の間には、夙《つと》に通俗小説と云う渾名《あだな》が出来ているらしい。もっとも渾名《あだな》にはまだいろいろある。簪の花が花だから、わすれな草。活動写真に出る亜米利加《アメリカ》の女優に似ているから、ミス・メリイ・ピックフォオド。このカッフェに欠くべからざるものだから、角砂糖。ETC. ETC.
 この店にはお君さんのほかにも、もう一人年上の女給仕がある。これはお松《まつ》さんと云って、器量《きりょう》は到底お君さんの敵ではない。まず白|麺麭《パン》と黒麺麭ほどの相違がある。だから一つカッフェに勤めていても、お君さんとお松さんとでは、祝儀の収入が非常に違う。お松さんは勿論、この収入の差に平《たいら》かなるを得ない。その不平が高《こう》じた所から、邪推もこの頃廻すようになっている。
 ある夏の午後、お松さんの持ち場の卓子《テエブル》にいた外国語学校の生徒らしいのが、巻煙草《まきたばこ》を一本|啣《くわ》えながら、燐寸《マッチ》の火をその先へ移そうとした。所が生憎《あいにく》その隣の卓子《テエブル》では、煽風機《せんぷうき》が勢いよく廻っているものだから、燐寸の火はそこまで届かない内に、いつも風に消されてしまう。そこでその卓子《テエブル》の側を通りかかったお君さんは、しばらくの間《あいだ》風をふせぐために、客と煽風機との間へ足を止《と》めた。その暇に巻煙草へ火を移した学生が、日に焼けた頬《ほお》へ微笑を浮べながら、「難有《ありがと》う」と云った所を見ると、お君さんのこの親切が先方にも通じたのは勿論である。すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、「あなた持っていらっしゃいよ。」と、嬌嗔《きょうしん》を発したらしい声を出した。――
 こんな葛藤《かっとう》が一週間に何度もある。従ってお君さんは、滅多にお松さんとは口をきかない。いつも自働ピアノの前に立っては、場所がらだけに多い学生の客に、無言の愛嬌《あいきょう》を売っている。あるいは業腹《ごうはら》らしいお松さんに無言ののろけを買わせている。
 が、お君さんとお松さんとの仲が悪いのは、何もお松さんが嫉妬《しっと》をするせいばかりではない。お君さんも内心、お松さんの趣味の低いのを軽蔑している。あれは全く尋常小学を出てから、浪花節《なにわぶし》を聴いたり、蜜豆《みつまめ》を食べたり、男を追っかけたりばかりしていた、そのせいに違いない。こうお君さんは確信している。ではそのお君さんの趣味というのが、どんな種類のものかと思ったら、しばらくこの賑《にぎや》かなカッフェを去って、近所の露路《ろじ》の奥にある、ある女髪結《おんなかみゆい》の二階を覗《のぞ》いて見るが好い。何故《なぜ》と云えばお君さんは、その女髪結の二階に間借をして、カッフェへ勤めている間のほかは、始終そこに起臥《おきふし》しているからである。
 二階は天井の低い六畳で、西日《にしび》のさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。その窓際の壁へよせて、更紗《さらさ》の布《ぬの》をかけた机がある。もっともこれは便宜上、仮に机と呼んで置くが、実は古色を帯びた茶ぶ台に過ぎない。その茶ぶ――机の上には、これも余り新しくない西洋|綴《とじ》の書物が並んでいる。「不如帰《ほととぎす》」「
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