藤村《とうそん》詩集」「松井須磨子《まついすまこ》の一生」「新朝顔日記」「カルメン」「高い山から谷底見れば」――あとは婦人雑誌が七八冊あるばかりで、残念ながらおれの小説集などは、唯一の一冊も見当らない。それからその机の側にある、とうにニスの剥げた茶箪笥《ちゃだんす》の上には、頸《くび》の細い硝子《ガラス》の花立てがあって、花びらの一つとれた造花の百合《ゆり》が、手際よくその中にさしてある。察する所この百合は、花びらさえまだ無事でいたら、今でもあのカッフェの卓子《テエブル》に飾られていたのに相違あるまい。最後にその茶箪笥の上の壁には、いずれも雑誌の口絵らしいのが、ピンで三四枚とめてある。一番まん中なのは、鏑木清方《かぶらぎきよかた》君の元禄女《げんろくおんな》で、その下に小さくなっているのは、ラファエルのマドンナか何からしい。と思うとその元禄女の上には、北村四海《きたむらしかい》君の彫刻の女が御隣に控えたベエトオフェンへ滴《したた》るごとき秋波《しゅうは》を送っている。但しこのベエトオフェンは、ただお君さんがベエトオフェンだと思っているだけで、実は亜米利加《アメリカ》の大統領ウッドロオ・ウイルソンなのだから、北村四海君に対しても、何とも御気の毒の至《いたり》に堪えない。――
 こう云えばお君さんの趣味生活が、いかに芸術的色彩に富んでいるか、問わずしてすでに明かであろうと思う。また実際お君さんは、毎晩遅くカッフェから帰って来ると、必ずこのベエトオフェン alias ウイルソンの肖像の下に、「不如帰《ほととぎす》」を読んだり、造花の百合《ゆり》を眺めたりしながら、新派悲劇の活動写真の月夜の場面よりもサンティマンタアルな、芸術的感激に耽《ふけ》るのである。
 桜頃《さくらごろ》のある夜、お君さんはひとり机に向って、ほとんど一番鶏《いちばんどり》が啼く頃まで、桃色をしたレタア・ペエパアにせっせとペンを走らせ続けた。が、その書き上げた手紙の一枚が、机の下に落ちていた事は、朝になってカッフェへ出て行った後《のち》も、ついにお君さんには気がつかなかったらしい。すると窓から流れこんだ春風《はるかぜ》が、その一枚のレタア・ペエパアを飜《ひるがえ》して、鬱金木綿《うこんもめん》の蔽《おお》いをかけた鏡が二つ並んでいる梯子段《はしごだん》の下まで吹き落してしまった。下にいる女髪結は、頻々《
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