》えながら、燐寸《マッチ》の火をその先へ移そうとした。所が生憎《あいにく》その隣の卓子《テエブル》では、煽風機《せんぷうき》が勢いよく廻っているものだから、燐寸の火はそこまで届かない内に、いつも風に消されてしまう。そこでその卓子《テエブル》の側を通りかかったお君さんは、しばらくの間《あいだ》風をふせぐために、客と煽風機との間へ足を止《と》めた。その暇に巻煙草へ火を移した学生が、日に焼けた頬《ほお》へ微笑を浮べながら、「難有《ありがと》う」と云った所を見ると、お君さんのこの親切が先方にも通じたのは勿論である。すると帳場の前へ立っていたお松さんが、ちょうどそこへ持って行く筈の、アイスクリイムの皿を取り上げると、お君さんの顔をじろりと見て、「あなた持っていらっしゃいよ。」と、嬌嗔《きょうしん》を発したらしい声を出した。――
 こんな葛藤《かっとう》が一週間に何度もある。従ってお君さんは、滅多にお松さんとは口をきかない。いつも自働ピアノの前に立っては、場所がらだけに多い学生の客に、無言の愛嬌《あいきょう》を売っている。あるいは業腹《ごうはら》らしいお松さんに無言ののろけを買わせている。
 が、お君さんとお松さんとの仲が悪いのは、何もお松さんが嫉妬《しっと》をするせいばかりではない。お君さんも内心、お松さんの趣味の低いのを軽蔑している。あれは全く尋常小学を出てから、浪花節《なにわぶし》を聴いたり、蜜豆《みつまめ》を食べたり、男を追っかけたりばかりしていた、そのせいに違いない。こうお君さんは確信している。ではそのお君さんの趣味というのが、どんな種類のものかと思ったら、しばらくこの賑《にぎや》かなカッフェを去って、近所の露路《ろじ》の奥にある、ある女髪結《おんなかみゆい》の二階を覗《のぞ》いて見るが好い。何故《なぜ》と云えばお君さんは、その女髪結の二階に間借をして、カッフェへ勤めている間のほかは、始終そこに起臥《おきふし》しているからである。
 二階は天井の低い六畳で、西日《にしび》のさす窓から外を見ても、瓦屋根のほかは何も見えない。その窓際の壁へよせて、更紗《さらさ》の布《ぬの》をかけた机がある。もっともこれは便宜上、仮に机と呼んで置くが、実は古色を帯びた茶ぶ台に過ぎない。その茶ぶ――机の上には、これも余り新しくない西洋|綴《とじ》の書物が並んでいる。「不如帰《ほととぎす》」「
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