尾生の信
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)尾生《びせい》は
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)舟|一艘《いっそう》通らない
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]
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尾生《びせい》は橋の下に佇《たたず》んで、さっきから女の来るのを待っている。
見上げると、高い石の橋欄《きょうらん》には、蔦蘿《つたかずら》が半ば這《は》いかかって、時々その間を通りすぎる往来の人の白衣《はくい》の裾が、鮮かな入日に照らされながら、悠々と風に吹かれて行く。が、女は未だに来ない。
尾生はそっと口笛を鳴しながら、気軽く橋の下の洲《す》を見渡した。
橋の下の黄泥《こうでい》の洲は、二坪ばかりの広さを剰《あま》して、すぐに水と続いている。水際《みずぎわ》の蘆《あし》の間には、大方《おおかた》蟹《かに》の棲家《すみか》であろう、いくつも円《まる》い穴があって、そこへ波が当る度に、たぶりと云うかすかな音が聞えた。が、女は未だに来ない。
尾生はやや待遠しそうに水際まで歩《ほ》を移して、舟|一艘《いっそう》通らない静な川筋を眺めまわした。
川筋には青い蘆《あし》が、隙間《すきま》もなくひしひしと生えている。のみならずその蘆の間には、所々《ところどころ》に川楊《かわやなぎ》が、こんもりと円く茂っている。だからその間を縫う水の面《おもて》も、川幅の割には広く見えない。ただ、帯《おび》ほどの澄んだ水が、雲母《きらら》のような雲の影をたった一つ鍍金《めっき》しながら、ひっそりと蘆の中にうねっている。が、女は未だに来ない。
尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は広くもない洲《す》の上を、あちらこちらと歩きながら、おもむろに暮色を加えて行く、あたりの静かさに耳を傾けた。
橋の上にはしばらくの間、行人《こうじん》の跡を絶ったのであろう。沓《くつ》の音も、蹄《ひづめ》の音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。風の音、蘆の音、水の音、――それからどこかでけたたましく、蒼鷺《あおさぎ》の啼く声がした。と思って立止ると、いつか潮がさし出したと見えて、黄泥《こうでい》を洗う水の色が、さ
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