っきよりは間近に光っている。が、女は未だに来ない。
尾生は険しく眉《まゆ》をひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、いよいよ足早に歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に洲の上へ上って来る。同時にまた川から立昇《たちのぼ》る藻《も》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》や水の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]も、冷たく肌にまつわり出した。見上げると、もう橋の上には鮮かな入日の光が消えて、ただ、石の橋欄《きょうらん》ばかりが、ほのかに青んだ暮方《くれがた》の空を、黒々と正しく切り抜いている。が、女は未だに来ない。
尾生はとうとう立ちすくんだ。
川の水はもう沓を濡しながら、鋼鉄よりも冷やかな光を湛《たた》えて、漫々と橋の下に広がっている。すると、膝《ひざ》も、腹も、胸も、恐らくは頃刻《けいこく》を出ない内に、この酷薄《こくはく》な満潮の水に隠されてしまうのに相違あるまい。いや、そう云う内にも水嵩《みずかさ》は益《ますます》高くなって、今ではとうとう両脛《りょうはぎ》さえも、川波の下に没してしまった。が、女は未だに来ない。
尾生は水の中に立ったまま、まだ一縷《いちる》の望を便りに、何度も橋の空へ眼をやった。
腹を浸《ひた》した水の上には、とうに蒼茫《そうぼう》たる暮色が立ち罩《こ》めて、遠近《おちこち》に茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりした靄《もや》の中から送って来る。と、尾生の鼻を掠《かす》めて、鱸《すずき》らしい魚が一匹、ひらりと白い腹を飜《ひるがえ》した。その魚の躍った空にも、疎《まばら》ながらもう星の光が見えて、蔦蘿《つたかずら》のからんだ橋欄《きょうらん》の形さえ、いち早い宵暗の中に紛《まぎ》れている。が、女は未だに来ない。……
―――――――――――――――――――――――――
夜半、月の光が一川《いっせん》の蘆と柳とに溢《あふ》れた時、川の水と微風とは静に囁《ささや》き交しながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思い憧《こが》れたせいかも知れない。ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》や藻《も》の※[#「均のつくり」、第3水準1−
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