べか》らざるの道理に候へば、如何様《いかやう》申し候うても、ころび候上ならでは、検脈|叶《かなひ》難き旨、申し張り候所、篠、何とも申し様無き顔を致し、少時《しばらく》私顔を見つめ居り候が、突然涙をはらはらと落し、私|足下《あしもと》に手をつき候うて、何やら蚊の様なる声にて申し候へども、折からの大雨の音にて、確《しか》と聞き取れ申さず、再三聞き直し候上、漸《やうやく》、然らば詮無く候へば、ころび候可き趣《おもむき》、判然致し候。なれどもころび候実証|無之《これなく》候へば、右|証明《あかし》を立つ可き旨、申し聞け候所、篠、無言の儘、懐中より、彼《かの》くるす[#「くるす」に傍線]を取り出し、玄関式台上へ差し置き候うて、静に三度まで踏み候。其節は格別取乱したる気色《けしき》も無之、涙も既に乾きし如く思はれ候へども、足下のくるす[#「くるす」に傍線]を眺め候眼の中、何となく熱病人の様にて、私方下男など、皆々気味悪しく思ひし由に御座候。
扨《さて》、私申し条も相立ち候へば、即刻下男に薬籠《やくろう》を担はせ、大雨の中を、篠《しの》同道にて、同人宅へ参り候所、至極手狭なる部屋に、里《さと》独り、南を枕にして打臥し居り候。尤も身熱《しんねつ》烈しく候へば、殆《ほとんど》正気|無之《これな》き体《てい》に相見え、いたいけなる手にて繰返し、繰返し、空《くう》に十字を描き候うては、頻《しきり》にはるれや[#「はるれや」に傍線]と申す語を、現《うつつ》の如く口走り、其|都度《つど》嬉しげに、微笑《ほほゑ》み居り候。右、はるれや[#「はるれや」に傍線]と申し候は、切支丹宗門の念仏にて、宗門仏に讃頌《さんしよう》を捧ぐる儀に御座候由、篠、其節|枕辺《まくらべ》にて、泣く泣く申し聞かし候。依つて、早速検脈致し候へば、傷寒《しやうかん》の病に紛れ無く、且は手遅れの儀も有之、今日中にも、存命覚束なかる可きやに見立て候間、詮方《せんかた》無く其旨、篠へ申し聞け候所、同人又々狂気の如く相成り、「私ころび候仔細は、娘の命助け度き一念よりに御座候。然るを落命致させては、其甲斐、万が一にも無之《これな》かる可く候。何卒泥烏須如来に背き奉り候私心苦しさを御汲み分け下され、娘一命、如何にもして、御取り留め下され度候。」と申し、私のみならず、私下男足下にも、手をつき候うて、頻《しきり》に頼み入り候へども、人力
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