芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)言わずとも好《い》い

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)窓|硝子《ガラス》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)結婚したのも去年だろう[#「結婚したのも去年だろう」に傍点]
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        一

 僕はふと旧友だった彼のことを思い出した。彼の名前などは言わずとも好《い》い。彼は叔父《おじ》さんの家を出てから、本郷《ほんごう》のある印刷屋の二階の六畳に間借《まが》りをしていた。階下の輪転機《りんてんき》のまわり出す度にちょうど小蒸汽《こじょうき》の船室のようにがたがた身震《みぶる》いをする二階である。まだ一高《いちこう》の生徒だった僕は寄宿舎の晩飯をすませた後《のち》、度たびこの二階へ遊びに行った。すると彼は硝子《ガラス》窓の下に人一倍細い頸《くび》を曲げながら、いつもトランプの運だめしをしていた。そのまた彼の頭の上には真鍮《しんちゅう》の油壺《あぶらつぼ》の吊《つ》りランプが一つ、いつも円《まる》い影を落していた。……

        二

 彼は本郷の叔父さんの家から僕と同じ本所《ほんじょ》の第三中学校へ通《かよ》っていた。彼が叔父さんの家にいたのは両親のいなかったためである。両親のいなかったためと云っても、母だけは死んではいなかったらしい。彼は父よりもこの母に、――このどこへか再縁《さいえん》した母に少年らしい情熱を感じていた。彼は確かある年の秋、僕の顔を見るが早いか、吃《ども》るように僕に話しかけた。
「僕はこの頃僕の妹が(妹が一人あったことはぼんやり覚えているんだがね。)縁《えん》づいた先を聞いて来たんだよ。今度の日曜にでも行って見ないか?」
 僕は早速《さっそく》彼と一しょに亀井戸《かめいど》に近い場末《ばすえ》の町へ行った。彼の妹の縁づいた先は存外《ぞんがい》見つけるのに暇《ひま》どらなかった。それは床屋《とこや》の裏になった棟割《むねわ》り長屋《ながや》の一軒だった。主人は近所の工場《こうじょう》か何かへ勤《つと》めに行った留守《るす》だったと見え、造作《ぞうさく》の悪い家の中には赤児《あかご》に乳房《ちぶさ》を含ませた細君、――彼の妹のほかに人かげはなかった。彼の妹は妹と云っても、彼よりもずっと大人《おとな》じみていた
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