。のみならず切れの長い目尻《めじり》のほかはほとんど彼に似ていなかった。
「その子供は今年《ことし》生れたの?」
「いいえ、去年。」
「結婚したのも去年だろう[#「結婚したのも去年だろう」に傍点]?」
「いいえ、一昨年《おととし》の三月ですよ。」
彼は何かにぶつかるように一生懸命に話しかけていた。が、彼の妹は時々赤児をあやしながら、愛想《あいそ》の善《よ》い応対をするだけだった。僕は番茶の渋《しぶ》のついた五郎八茶碗《ごろはちぢゃわん》を手にしたまま、勝手口の外を塞《ふさ》いだ煉瓦塀《れんがべい》の苔《こけ》を眺めていた。同時にまたちぐはぐな彼等の話にある寂しさを感じていた。
「兄《にい》さんはどんな人?」
「どんな人って……やっぱり本を読むのが好きなんですよ。」
「どんな本を?」
「講談本《こうだんぼん》や何かですけれども。」
実際その家の窓の下には古机が一つ据えてあった。古机の上には何冊かの本も、――講談本なども載《の》っていたであろう。しかし僕の記憶には生憎《あいにく》本のことは残っていない。ただ僕は筆立ての中に孔雀《くじゃく》の羽根が二本ばかり鮮《あざや》かに挿《さ》してあったのを覚えている。
「じゃまた遊びに来る。兄さんによろしく。」
彼の妹は不相変《あいかわらず》赤児に乳房を含ませたまま、しとやかに僕等に挨拶《あいさつ》した。
「さようですか? では皆さんによろしく。どうもお下駄《げた》も直しませんで。」
僕等はもう日の暮に近い本所の町を歩いて行った。彼も始めて顔を合せた彼の妹の心もちに失望しているのに違いなかった。が、僕等は言い合せたように少しもその気もちを口にしなかった。彼は、――僕は未《いま》だに覚えている。彼はただ道に沿うた建仁寺垣《けんにんじがき》に指を触《ふ》れながら、こんなことを僕に言っただけだった。
「こうやってずんずん歩いていると、妙に指が震《ふる》えるもんだね。まるでエレキでもかかって来るようだ。」
三
彼は中学を卒業してから、一高《いちこう》の試験を受けることにした。が、生憎《あいにく》落第《らくだい》した。彼があの印刷屋の二階に間借《まが》りをはじめたのはそれからである。同時にまたマルクスやエンゲルスの本に熱中しはじめたのもそれからである。僕は勿論社会科学に何《なん》の知識も持っていなかった。が、資本
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