。
「何か本を貸してくれないか? 今度君が来る時で善《い》いから。」
「どんな本を?」
「天才の伝記か何かが善い。」
「じゃジァン・クリストフを持って来ようか?」
「ああ、何でも旺盛《おうせい》な本が善い。」
僕は詮《あきら》めに近い心を持ち、弥生町《やよいちょう》の寄宿舎へ帰って来た。窓|硝子《ガラス》の破れた自習室には生憎《あいにく》誰も居合せなかった。僕は薄暗い電燈の下《した》に独逸文法《ドイツぶんぽう》を復習した。しかしどうも失恋した彼に、――たとい失恋したにもせよ、とにかく叔父さんの娘のある彼に羨望《せんぼう》を感じてならなかった。
五
彼はかれこれ半年《はんとし》の後《のち》、ある海岸へ転地することになった。それは転地とは云うものの、大抵は病院に暮らすものだった。僕は学校の冬休みを利用し、はるばる彼を尋ねて行った。彼の病室は日当りの悪い、透《す》き間《ま》風《かぜ》の通る二階だった。彼はベッドに腰かけたまま、不相変《あいかわらず》元気に笑いなどした。が、文芸や社会科学のことはほとんど一言《ひとこと》も話さなかった。
「僕はあの棕櫚《しゅろ》の木を見る度に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上の葉っぱが動いているだろう。――」
棕櫚《しゅろ》の木はつい硝子《ガラス》窓の外に木末《こずえ》の葉を吹かせていた。その葉はまた全体も揺《ゆ》らぎながら、細《こま》かに裂《さ》けた葉の先々をほとんど神経的に震《ふる》わせていた。それは実際近代的なもの哀れを帯びたものに違いなかった。が、僕はこの病室にたった一人している彼のことを考え、出来るだけ陽気に返事をした。
「動いているね。何をくよくよ海べの棕櫚はさ。……」
「それから?」
「それでもうおしまいだよ。」
「何《なん》だつまらない。」
僕はこう云う対話の中《うち》にだんだん息苦《いきぐる》しさを感じ出した。
「ジァン・クリストフは読んだかい?」
「ああ、少し読んだけれども、……」
「読みつづける気にはならなかったの?」
「どうもあれは旺盛《おうせい》すぎてね。」
僕はもう一度一生懸命に沈み勝ちな話を引き戻した。
「この間《あいだ》Kが見舞いに来たってね。」
「ああ、日帰りでやって来たよ。生体解剖《せいたいかいぼう》の話や何かして行ったっけ。」
「不愉快なやつだね。」
「どうして?」
「
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