ットなどを持ち、彼のいる書生部屋へ見舞いに行った。彼はいつも床《とこ》の上に細い膝《ひざ》を抱《だ》いたまま、存外《ぞんがい》快濶《かいかつ》に話したりした。しかし僕は部屋の隅に置いた便器を眺めずにはいられなかった。それは大抵《たいてい》硝子《ガラス》の中にぎらぎらする血尿《けつにょう》を透《す》かしたものだった。
「こう云う体《からだ》じゃもう駄目《だめ》だよ。とうてい牢獄《ろうごく》生活も出来そうもないしね。」
 彼はこう言って苦笑《くしょう》するのだった。
「バクニインなどは写真で見ても、逞《たくま》しい体をしているからなあ。」
 しかし彼を慰めるものはまだ全然ない訣《わけ》ではなかった。それは叔父さんの娘に対する、極めて純粋な恋愛だった。彼は彼の恋愛を僕にも一度も話したことはなかった。が、ある日の午後、――ある花曇りに曇った午後、僕は突然彼の口から彼の恋愛を打ち明けられた。突然?――いや、必ずしも突然ではなかった。僕はあらゆる青年のように彼の従妹《いとこ》を見かけた時から何か彼の恋愛に期待を持っていたのだった。
「美代《みよ》ちゃんは今学校の連中と小田原《おだわら》へ行っているんだがね、僕はこの間《あいだ》何気《なにげ》なしに美代ちゃんの日記を読んで見たんだ。……」
 僕はこの「何気なしに」に多少の冷笑を加えたかった。が、勿論《もちろん》何も言わずに彼の話の先を待っていた。
「すると電車の中で知り合になった大学生のことが書いてあるんだよ。」
「それで?」
「それで僕は美代ちゃんに忠告しようかと思っているんだがね。……」
 僕はとうとう口を辷《すべ》らし、こんな批評《ひひょう》を加えてしまった。
「それは矛盾《むじゅん》しているじゃないか? 君は美代ちゃんを愛しても善《い》い、美代ちゃんは他人を愛してはならん、――そんな理窟《りくつ》はありはしないよ。ただ君の気もちとしてならば、それはまた別問題だけれども。」
 彼は明かに不快《ふかい》らしかった。が、僕の言葉には何も反駁《はんばく》を加えなかった。それから、――それから何を話したのであろう? 僕はただ僕自身も不快になったことを覚えている。それは勿論病人の彼を不快にしたことに対する不快だった。
「じゃ僕は失敬するよ。」
「ああ、じゃ失敬。」
 彼はちょっと頷《うなず》いた後《のち》、わざとらしく気軽につけ加えた
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング