彼 第二
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)愛蘭土《アイルランド》人

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五六年|前《まえ》

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(例)[#地から1字上げ](大正十五年十一月二十九日)
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        一

 彼は若い愛蘭土《アイルランド》人だった。彼の名前などは言わずとも好《い》い。僕はただ彼の友だちだった。彼の妹さんは僕のことを未《いま》だに My brother's best friend と書いたりしている。僕は彼と初対面《しょたいめん》の時、何か前にも彼の顔を見たことのあるような心もちがした。いや、彼の顔ばかりではない。その部屋のカミンに燃えている火も、火《ほ》かげの映《うつ》った桃花心木《マホガニイ》の椅子《いす》も、カミンの上のプラトオン全集も確かに見たことのあるような気がした。この気もちはまた彼と話しているうちにだんだん強まって来るばかりだった。僕はいつかこう云う光景は五六年|前《まえ》の夢の中にも見たことがあったと思うようになった。しかし勿論そんなことは一度も口に出したことはなかった。彼は敷島《しきしま》をふかしながら、当然僕等の間《あいだ》に起る愛蘭土《アイルランド》の作家たちの話をしていた。
「I detest Bernard Shaw.」
 僕は彼が傍若無人《ぼうじゃくぶじん》にこう言ったことを覚えている、それは二人《ふたり》とも数《かぞ》え年《どし》にすれば、二十五になった冬のことだった。……

        二

 僕等は金《かね》の工面《くめん》をしてはカッフェやお茶屋へ出入した。彼は僕よりも三割がた雄《おす》の特性を具えていた。ある粉雪《こなゆき》の烈しい夜《よる》、僕等はカッフェ・パウリスタの隅のテエブルに坐っていた。その頃のカッフェ・パウリスタは中央にグラノフォンが一台あり、白銅《はくどう》を一つ入れさえすれば音楽の聞かれる設備になっていた。その夜《よ》もグラノフォンは僕等の話にほとんど伴奏を絶ったことはなかった。
「ちょっとあの給仕に通訳してくれ給え。――誰でも五銭出す度に僕はきっと十銭出すから、グラノフォンの鳴るのをやめさせてくれって。」
「そんなことは頼まれないよ。第一他人の聞きたがっている音楽を銭《ぜに》ずくでやめさせるのは悪趣味《あくしゅみ》じゃないか?」
「それじゃ他人の聞きたがらない音楽を金《かね》ずくで聞かせるのも悪趣味だよ。」
 グラノフォンはちょうどこの時に仕合せとぱったり音を絶《た》ってしまった。が、たちまち鳥打帽《とりうちぼう》をかぶった、学生らしい男が一人、白銅《はくどう》を入れに立って行った。すると彼は腰を擡《もた》げるが早いか、ダム何《なん》とか言いながら、クルウェットスタンドを投げつけようとした。
「よせよ。そんな莫迦《ばか》なことをするのは。」
 僕は彼を引きずるようにし、粉雪《こなゆき》のふる往来へ出ることにした。しかし何か興奮した気もちは僕にも全然ない訣《わけ》ではなかった。僕等は腕を組みながら、傘もささずに歩いて行った。
「僕はこう云う雪の晩などはどこまでも歩いて行《ゆ》きたくなるんだ。どこまでも足の続くかぎりは……」
 彼はほとんど叱りつけるように僕の言葉を中断した。
「じゃなぜ歩いて行《ゆ》かないんだ? 僕などはどこまでも歩いて行きたくなれば、どこまでも歩いて行くことにしている。」
「それは余りロマンティックだ。」
「ロマンティックなのがどこが悪い? 歩いて行きたいと思いながら、歩いて行かないのは意気地《いくじ》なしばかりだ。凍死《とうし》しても何《なん》でも歩いて見ろ。……」
 彼は突然|口調《くちょう》を変え Brother と僕に声をかけた。
「僕はきのう本国の政府へ従軍したいと云う電報を打ったんだよ。」
「それで?」
「まだ何《なん》とも返事は来ない。」
 僕等はいつか教文館《きょうぶんかん》の飾り窓の前へ通りかかった。半《なか》ば硝子《ガラス》に雪のつもった、電燈の明るい飾り窓の中にはタンクや毒瓦斯《どくガス》の写真版を始め、戦争ものが何冊も並んでいた。僕等は腕を組んだまま、ちょっとこの飾り窓の前に立ち止まった。
「Above the War――Romain Rolland……」
「ふむ、僕等には above じゃない。」
 彼は妙な表情をした。それはちょうど雄鶏《おんどり》の頸《くび》の羽根を逆立《さかだ》てるのに似たものだった。
「ロオランなどに何がわかる? 僕等は戦争の amidst にいるんだ。」
 独逸《ドイツ》に対する彼の敵意は勿論僕には痛切ではなかった。従って僕は彼の言葉に多少の反感の起るのを感じた。同時にまた酔《よい》の醒《さ》めて来るのも感じた。
「僕はもう帰る。」
「そうか? じゃ僕は……」
「どこかこの近所へ沈んで行けよ。」
 僕等はちょうど京橋《きょうばし》の擬宝珠《ぎぼし》の前に佇《たたず》んでいた。人気《ひとけ》のない夜更《よふ》けの大根河岸《だいこんがし》には雪のつもった枯れ柳が一株、黒ぐろと澱《よど》んだ掘割りの水へ枝を垂らしているばかりだった。
「日本《にほん》だね、とにかくこう云う景色は。」
 彼は僕と別れる前にしみじみこんなことを言ったものだった。

        三

 彼は生憎《あいにく》希望通りに従軍することは出来なかった。が、一度ロンドンへ帰った後《のち》、二三年ぶりに日本に住むことになった。しかし僕等は、――少くとも僕はいつかもうロマン主義を失っていた。もっともこの二三年は彼にも変化のない訣《わけ》ではなかった。彼はある素人下宿《しろうとげしゅく》の二階に大島《おおしま》の羽織や着物を着、手あぶりに手をかざしたまま、こう云う愚痴《ぐち》などを洩らしていた。
「日本もだんだん亜米利加《アメリカ》化するね。僕は時々日本よりも仏蘭西《フランス》に住もうかと思うことがある。」
「それは誰でも外国人はいつか一度は幻滅《げんめつ》するね。ヘルンでも晩年はそうだったんだろう。」
「いや、僕は幻滅したんじゃない。illusion を持たないものに disillusion のあるはずはないからね。」
「そんなことは空論じゃないか? 僕などは僕自身にさえ、――未《いま》だに illusion を持っているだろう。」
「それはそうかも知れないがね。……」
 彼は浮かない顔をしながら、どんよりと曇った高台《たかだい》の景色を硝子《ガラス》戸越しに眺めていた。
「僕は近々《きんきん》上海《シャンハイ》の通信員になるかも知れない。」
 彼の言葉は咄嗟《とっさ》の間《あいだ》にいつか僕の忘れていた彼の職業を思い出させた。僕はいつも彼のことをただ芸術的な気質《きしつ》を持った僕等の一人《ひとり》に考えていた。しかし彼は衣食する上にはある英字新聞の記者を勤《つと》めているのだった。僕はどう云う芸術家も脱却《だっきゃく》出来ない「店《みせ》」を考え、努《つと》めて話を明るくしようとした。
「上海《シャンハイ》は東京よりも面白《おもしろ》いだろう。」
「僕もそう思っているがね。しかしその前にもう一度ロンドンへ行って来なければならない。……時にこれを君に見せたかしら?」
 彼は机の抽斗《ひきだし》から白い天鵞絨《びろうど》の筐《はこ》を出した。筐の中にはいっているのは細いプラティナの指環《ゆびわ》だった。僕はその指環を手にとって見、内側に雕《ほ》ってある「桃子《ももこ》へ」と云う字に頬笑《ほほえ》まない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。
「僕はその『桃子へ』の下に僕の名を入れるように註文《ちゅうもん》したんだけれど。」
 それはあるいは職人の間違いだったかも知れなかった。しかしまたあるいはその職人が相手の女の商売を考え、故《ことさ》らに外国人の名前などは入れずに置いたかも知れなかった。僕はそんなことを気にしない彼に同情よりもむしろ寂しさを感じた。
「この頃はどこへ行っているんだい?」
「柳橋《やなぎばし》だよ。あすこは水の音が聞えるからね。」
 これもやはり東京人の僕には妙に気《き》の毒《どく》な言葉だった。しかし彼はいつの間《ま》にか元気らしい顔色《かおいろ》に返り、彼の絶えず愛読している日本文学の話などをし出した。
「この間|谷崎潤一郎《たにざきじゅんいちろう》の『悪魔』と云う小説を読んだがね、あれは恐らく世界中で一番|汚《きたな》いことを書いた小説だろう。」
(何箇月かたった後《のち》、僕は何かの話の次手《ついで》に『悪魔』の作家に彼の言葉を話した。するとこの作家は笑いながら、無造作《むぞうさ》に僕にこう言うのだった。――「世界一ならば何《なん》でも好《い》い。」!)
「『虞美人草《ぐびじんそう》』は?」
「あれは僕の日本語じゃ駄目《だめ》だ。……きょうは飯《めし》ぐらいはつき合えるかね?」
「うん、僕もそのつもりで来たんだ。」
「じゃちょっと待ってくれ。そこに雑誌が四五冊あるから。」
 彼は口笛を吹きながら、早速《さっそく》洋服に着換え出した。僕は彼に背《せ》を向けたまま、漫然とブック・マンなどを覗《のぞ》いていた。すると彼は口笛の合い間《ま》に突然短い笑い声を洩らし、日本語でこう僕に話しかけた。
「僕はもうきちりと坐ることが出来るよ。けれどもズボンがイタマシイですね。」

        四

 僕が最後に彼に会ったのは上海《シャンハイ》のあるカッフェだった。(彼はそれから半年《はんとし》ほど後《のち》、天然痘《てんねんとう》に罹《かか》って死んでしまった。)僕等は明るい瑠璃燈《るりとう》の下《した》にウヰスキイ炭酸《たんさん》を前にしたまま、左右のテエブルに群《むらが》った大勢《おおぜい》の男女《なんにょ》を眺めていた。彼等は二三人の支那人《シナじん》を除けば、大抵は亜米利加《アメリカ》人か露西亜《ロシア》人だった。が、その中に青磁色《せいじいろ》のガウンをひっかけた女が一人、誰よりも興奮してしゃべっていた。彼女は体こそ痩《や》せていたものの、誰よりも美しい顔をしていた。僕は彼女の顔を見た時、砧手《きぬたで》のギヤマンを思い出した。実際また彼女は美しいと云っても、どこか病的だったのに違いなかった。
「何《なん》だい、あの女は?」
「あれか? あれは仏蘭西《フランス》の……まあ、女優と云うんだろう。ニニイと云う名で通《とお》っているがね。――それよりもあの爺《じい》さんを見ろよ。」
「あの爺さん」は僕等の隣《となり》に両手に赤葡萄酒《あかぶどうしゅ》の杯《さかずき》を暖め、バンドの調子に合せては絶えず頭を動かしていた。それは満足そのものと云っても、少しも差支《さしつか》えない姿だった。僕は熱帯植物の中からしっきりなしに吹きつけて来るジャッズにはかなり興味を感じた。しかし勿論幸福らしい老人などには興味を感じなかった。
「あの爺さんは猶太《ユダヤ》人だがね。上海《シャンハイ》にかれこれ三十年住んでいる。あんな奴は一体どう云う量見《りょうけん》なんだろう?」
「どう云う量見でも善《い》いじゃないか?」
「いや、決して善《よ》くはないよ。僕などはもう支那に飽き飽きしている。」
「支那にじゃない。上海《シャンハイ》にだろう。」
「支那にさ。北京《ペキン》にもしばらく滞在したことがある。……」
 僕はこう云う彼の不平をひやかさない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。
「支那もだんだん亜米利加《アメリカ》化するかね?」
 彼は肩を聳《そびや》かし、しばらくは何《なん》とも言わなかった。僕は後悔《こうかい》に近いものを感じた。のみならず気まずさを紛《まぎ》らすために何か言わなければならぬことも感じた。
「じゃどこに住みたいんだ?」
「どこに住んでも、――ずいぶんまた方々に住んで見たんだがね。僕が今住んで見たいと思うのはソヴィエット治下《ちか》の露西亜《ロシア》ばかりだ。」
「それならば露西亜へ行けば好
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