sい》いのに。君などはどこへでも行《ゆ》かれるんだろう。」
 彼はもう一度黙ってしまった。それから、――僕は未《いま》だにはっきりとその時の彼の顔を覚えている。彼は目を細めるようにし、突然僕も忘れていた万葉集《まんようしゅう》の歌をうたい出した。
「世の中をうしとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。」
 僕は彼の日本語の調子に微笑しない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。が、妙に内心には感動しない訣にも行かなかった。
「あの爺《じい》さんは勿論だがね。ニニイさえ僕よりは仕合せだよ。何しろ君も知っている通り、……」
 僕は咄嗟《とっさ》に快濶《かいかつ》になった。
「ああ、ああ、聞かないでもわかっているよ。お前は『さまよえる猶太《ユダヤ》人』だろう。」
 彼はウヰスキイ炭酸《たんさん》を一口《ひとくち》飲み、もう一度ふだんの彼自身に返った。
「僕はそんなに単純じゃない。詩人、画家、批評家、新聞記者、……まだある。息子《むすこ》、兄、独身者《どくしんもの》、愛蘭土《アイルランド》人、……それから気質《きしつ》上のロマン主義者、人生観上の現実主義者、政治上の共産主義者……」
 僕等はいつか笑いながら、椅子《いす》を押しのけて立ち上っていた。
「それから彼女には情人《じょうじん》だろう。」
「うん、情人、……まだある。宗教上の無神論者、哲学上の物質主義者……」
 夜更《よふ》けの往来は靄《もや》と云うよりも瘴気《しょうき》に近いものにこもっていた。それは街燈の光のせいか、妙にまた黄色《きいろ》に見えるものだった。僕等は腕を組んだまま、二十五の昔と同じように大股《おおまた》にアスファルトを踏んで行った。二十五の昔と同じように――しかし僕はもう今ではどこまでも歩こうとは思わなかった。
「まだ君には言わなかったかしら、僕が声帯《せいたい》を調べて貰った話は?」
「上海《シャンハイ》でかい?」
「いや、ロンドンへ帰った時に。――僕は声帯を調べて貰ったら、世界的なバリトオンだったんだよ。」
 彼は僕の顔を覗《のぞ》きこむようにし、何か皮肉に微笑していた。
「じゃ新聞記者などをしているよりも、……」
「勿論オペラ役者《やくしゃ》にでもなっていれば、カルウソオぐらいには行っていたんだ。しかし今からじゃどうにもならない。」
「それは君の一生の損だね。」
「何、損をしたのは僕じゃない。世界中の人間が損をしたんだ。」
 僕等はもう船の灯《ひ》の多い黄浦江《こうほこう》の岸を歩いていた。彼はちょっと歩みをとめ、顋《あご》で「見ろ」と云う合図《あいず》をした。靄《もや》の中に仄《ほの》めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩《ゆる》い波に絶えず揺《ゆ》すられていた。そのまた小犬は誰の仕業《しわざ》か、頸《くび》のまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷《ざんこく》な気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみならず僕は彼がうたった万葉集《まんようしゅう》の歌以来、多少感傷主義に伝染していた。
「ニニイだね。」
「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」
 彼はこう答えるが早いか、途方《とほう》もなく大きい嚔《くさ》めをした。

        五

 ニイスにいる彼の妹さんから久しぶりに手紙の来たためであろう。僕はつい二三日|前《まえ》の夜《よる》、夢の中に彼と話していた。それはどう考えても、初対面の時に違いなかった。カミンも赤あかと火を動かしていれば、そのまた火《ほ》かげも桃花心木《マホガニイ》のテエブルや椅子《いす》に映《うつ》っていた。僕は妙に疲労しながら、当然僕等の間《あいだ》に起る愛蘭土《アイルランド》の作家たちの話をしていた。しかし僕にのしかかって来る眠気《ねむけ》と闘うのは容易ではなかった。僕は覚束《おぼつか》ない意識の中《うち》にこう云う彼の言葉を聞いたりした。
「I detest Bernard Shaw.」
 しかし僕は腰かけたまま、いつかうとうと眠ってしまった。すると、――おのずから目を醒《さ》ました。夜《よ》はまだ明け切らずにいるのであろう。風呂敷《ふろしき》に包んだ電燈は薄暗い光を落している。僕は床《とこ》の上に腹這《はらば》いになり、妙な興奮を鎮《しず》めるために「敷島《しきしま》」に一本火をつけて見た。が、夢の中に眠った僕が現在に目を醒《さ》ましているのはどうも無気味《ぶきみ》でならなかった。
[#地から1字上げ](大正十五年十一月二十九日)



底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
   1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月~1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月8日修正
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