B世界中の人間が損をしたんだ。」
 僕等はもう船の灯《ひ》の多い黄浦江《こうほこう》の岸を歩いていた。彼はちょっと歩みをとめ、顋《あご》で「見ろ」と云う合図《あいず》をした。靄《もや》の中に仄《ほの》めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩《ゆる》い波に絶えず揺《ゆ》すられていた。そのまた小犬は誰の仕業《しわざ》か、頸《くび》のまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷《ざんこく》な気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみならず僕は彼がうたった万葉集《まんようしゅう》の歌以来、多少感傷主義に伝染していた。
「ニニイだね。」
「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」
 彼はこう答えるが早いか、途方《とほう》もなく大きい嚔《くさ》めをした。

        五

 ニイスにいる彼の妹さんから久しぶりに手紙の来たためであろう。僕はつい二三日|前《まえ》の夜《よる》、夢の中に彼と話していた。それはどう考えても、初対面の時に違いなかった。カミンも赤あかと火を動かしていれば、そのまた火《ほ》かげも桃花心木《マホガニイ》のテエブルや椅子《いす》に映《うつ》っていた。僕は妙に疲
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