「つか笑いながら、椅子《いす》を押しのけて立ち上っていた。
「それから彼女には情人《じょうじん》だろう。」
「うん、情人、……まだある。宗教上の無神論者、哲学上の物質主義者……」
 夜更《よふ》けの往来は靄《もや》と云うよりも瘴気《しょうき》に近いものにこもっていた。それは街燈の光のせいか、妙にまた黄色《きいろ》に見えるものだった。僕等は腕を組んだまま、二十五の昔と同じように大股《おおまた》にアスファルトを踏んで行った。二十五の昔と同じように――しかし僕はもう今ではどこまでも歩こうとは思わなかった。
「まだ君には言わなかったかしら、僕が声帯《せいたい》を調べて貰った話は?」
「上海《シャンハイ》でかい?」
「いや、ロンドンへ帰った時に。――僕は声帯を調べて貰ったら、世界的なバリトオンだったんだよ。」
 彼は僕の顔を覗《のぞ》きこむようにし、何か皮肉に微笑していた。
「じゃ新聞記者などをしているよりも、……」
「勿論オペラ役者《やくしゃ》にでもなっていれば、カルウソオぐらいには行っていたんだ。しかし今からじゃどうにもならない。」
「それは君の一生の損だね。」
「何、損をしたのは僕じゃない
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