sい》いのに。君などはどこへでも行《ゆ》かれるんだろう。」
彼はもう一度黙ってしまった。それから、――僕は未《いま》だにはっきりとその時の彼の顔を覚えている。彼は目を細めるようにし、突然僕も忘れていた万葉集《まんようしゅう》の歌をうたい出した。
「世の中をうしとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば。」
僕は彼の日本語の調子に微笑しない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。が、妙に内心には感動しない訣にも行かなかった。
「あの爺《じい》さんは勿論だがね。ニニイさえ僕よりは仕合せだよ。何しろ君も知っている通り、……」
僕は咄嗟《とっさ》に快濶《かいかつ》になった。
「ああ、ああ、聞かないでもわかっているよ。お前は『さまよえる猶太《ユダヤ》人』だろう。」
彼はウヰスキイ炭酸《たんさん》を一口《ひとくち》飲み、もう一度ふだんの彼自身に返った。
「僕はそんなに単純じゃない。詩人、画家、批評家、新聞記者、……まだある。息子《むすこ》、兄、独身者《どくしんもの》、愛蘭土《アイルランド》人、……それから気質《きしつ》上のロマン主義者、人生観上の現実主義者、政治上の共産主義者……」
僕等は
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