ある。現に短歌は発句のやうに季題などに手《た》よつてゐない。これは何も発句よりも十四音だけ多いのにはよらぬ筈である。
三 詩語
季題は発句には無用である。しかし季題は無用にしても、詩語は決して無用ではない。たとへば行春と云ふ言葉などは僕等の祖先から伝へ来つた、美しい語感を伴つてゐる。かう云ふ語感を軽蔑するのは僕等自身を軽蔑するに等しい。
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行春を近江の人と惜しみける 芭蕉
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追記。詩語と詩語でない言葉との差別は勿論事実上ぼんやりしてゐる。
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四 調べ
発句も既に詩であるとすれば、おのづから調べを要する筈である。元禄びとには元禄びとの調べがあり、大正びとには大正びとの調べがあると言ふのは必しも謬見《びうけん》と称し難い。しかしその調べと云ふ意味を十七音か否かに限るのは所謂《いはゆる》新傾向の作家たちの謬見である。
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年の市線香買ひに出でばやな 芭蕉
夏の月|御油《ごゆ》より出でて赤坂や 同上
早稲《わせ》の香やわけ入る右は有磯海《ありそうみ》 同上
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