険なることは趙甌北《てうおうほく》の「簷曝雑記《えんばくざつき》」にその好例ありと言ふべし。南昌の人に李太虚《りたいきよ》と言ふものあり。明の崇禎《そうてい》中に列卿《れつけい》と為《な》る。国変に死せず。李自成《りじせい》に降《くだ》り、清朝|定鼎《ていてい》の後、脱し帰る。挙人|徐巨源《じよきよげん》と言ふものあり。嘗《かつて》之を非笑す。一日太虚の病を訪ふ。太虚自ら言ふ、「病んで将《まさ》に起《た》たざらんとす」と。巨源曰、「公の寿正に長し。必ず死せじ」と。之を詰《なじ》れば則ち曰、「甲申乙酉に(明の亡びたる〔二字欠〕の末年なり。)死せず。則ち更に死期無し」と。太虚怒る。これは怒るのも尤《もつと》もなり。更に又巨源、一劇を撰《せん》す。この劇は太虚及び※[#「龍/共」、第3水準1−94−87]芝麓《ろうしろく》賊に降り、後に清朝の兵入るを聞くや、急に逃れて杭州に至り、追兵の至るに驚いて、岳飛《がくひ》墓前、鉄鋳の秦檜《しんくわい》夫人の跨下《こか》に匿《かく》る、偶《たまたま》この鉄像の月事《げつじ》に値ひ、兵過ぎて跨下を這ひ出せば、両人の頭皆血に汚れたるを描けるものなり。太虚この劇の流行を聞き、丁度南昌に来れる※[#「龍/共」、第3水準1−94−87]芝麓と共に、密《ひそ》かに歌伶《かれい》を其の家に召し、夜半之を演ずるを観《み》る。演じて夫人の跨下を出づるに至るや、両人覚えず大哭《たいこく》して曰、「名節地を掃《はら》ふこと此《ここ》に至る。夫れ復《また》何をか言はん。然れども孺子《じゆし》の為に辱《はづかし》めらるること此に至る。必ず殺して以て忿念《ふんねん》を洩《も》らさん」と。乃《すなは》ち人をして才人巨源を何処《いづこ》かの逆旅《げきりよ》に刺殺せしめたりと言ふ。按《あん》ずるに自殺に怯《けふ》なるものは、他殺にも怯なりと言ふべからず。巨源のこの理を辨《わきま》へず、妄《みだ》りに今人を罵つて畢《つひ》に刀下の怨鬼《えんき》となる。常談も大概《たいがい》にするものなりと知るべし。
[#地から1字上げ](大正十二年)



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成
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