きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」
 白は思わず身震《みぶる》いをしました。この声は白の心の中へ、あの恐ろしい黒の最後をもう一度はっきり浮ばせたのです。白は目をつぶったまま、元来た方へ逃げ出そうとしました。けれどもそれは言葉通り、ほんの一瞬の間《あいだ》のことです。白は凄《すさま》じい唸《うな》り声を洩《も》らすと、きりりとまた振り返りました。
「きゃあん。きゃあん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」
 この声はまた白の耳にはこう云う言葉にも聞えるのです。
「きゃあん。きゃあん。臆病《おくびょう》ものになるな! きゃあん。臆病ものになるな!」
 白は頭を低めるが早いか、声のする方へ駈《か》け出しました。
 けれどもそこへ来て見ると、白の目の前へ現れたのは犬殺しなどではありません。ただ学校の帰りらしい、洋服を着た子供が二三人、頸《くび》のまわりへ縄《なわ》をつけた茶色の子犬を引きずりながら、何かわいわい騒《さわ》いでいるのです。子犬は一生懸命に引きずられまいともがきもがき、「助けてくれえ。」と繰り返していました。しかし子供たちはそんな声に耳を借すけしきもありません。ただ笑ったり、怒鳴《どな》ったり、あるいはまた子犬の腹を靴《くつ》で蹴《け》ったりするばかりです。
 白は少しもためらわずに、子供たちを目がけて吠えかかりました。不意を打たれた子供たちは驚いたの驚かないのではありません。また実際白の容子《ようす》は火のように燃えた眼の色と云い、刃物《はもの》のようにむき出した牙《きば》の列と云い、今にも噛《か》みつくかと思うくらい、恐ろしいけんまくを見せているのです。子供たちは四方《しほう》へ逃げ散りました。中には余り狼狽《ろうばい》したはずみに、路《みち》ばたの花壇へ飛びこんだのもあります。白は二三間追いかけた後《のち》、くるりと子犬を振り返ると、叱《しか》るようにこう声をかけました。
「さあ、おれと一しょに来い。お前の家《うち》まで送ってやるから。」
 白は元来《もとき》た木々の間《あいだ》へ、まっしぐらにまた駈《か》けこみました。茶色の子犬も嬉しそうに、べンチをくぐり、薔薇《ばら》を蹴散《けち》らし、白に負けまいと走って来ます。まだ頸にぶら下った、長い縄をひきずりながら。

       ×          ×          ×

 二三時間たった後《のち》、白は貧しいカフェの前に茶色の子犬と佇《たたず》んでいました。昼も薄暗いカフェの中にはもう赤あかと電燈がともり、音のかすれた蓄音機《ちくおんき》は浪花節《なにわぶし》か何かやっているようです。子犬は得意《とくい》そうに尾を振りながら、こう白へ話しかけました。
「僕はここに住んでいるのです。この大正軒《たいしょうけん》と云うカフェの中に。――おじさんはどこに住んでいるのです?」
「おじさんかい?――おじさんはずっと遠い町にいる。」
 白は寂しそうにため息をしました。
「じゃもうおじさんは家《うち》へ帰ろう。」
「まあお待ちなさい。おじさんの御主人はやかましいのですか?」
「御主人? なぜまたそんなことを尋《たず》ねるのだい?」
「もし御主人がやかましくなければ、今夜はここに泊《とま》って行って下さい。それから僕のお母さんにも命拾いの御礼を云わせて下さい。僕の家には牛乳だの、カレエ・ライスだの、ビフテキだの、いろいろな御馳走《ごちそう》があるのです。」
「ありがとう。ありがとう。だがおじさんは用があるから、御馳走になるのはこの次にしよう。――じゃお前のお母さんによろしく。」
 白はちょいと空を見てから、静かに敷石の上を歩き出しました。空にはカフェの屋根のはずれに、三日月《みかづき》もそろそろ光り出しています。
「おじさん。おじさん。おじさんと云えば!」
 子犬は悲しそうに鼻を鳴らしました。
「じゃ名前だけ聞かして下さい。僕の名前はナポレオンと云うのです。ナポちゃんだのナポ公だのとも云われますけれども。――おじさんの名前は何と云うのです?」
「おじさんの名前は白と云うのだよ。」
「白――ですか? 白と云うのは不思議ですね。おじさんはどこも黒いじゃありませんか?」
 白は胸が一ぱいになりました。
「それでも白と云うのだよ。」
「じゃ白のおじさんと云いましょう。白のおじさん。ぜひまた近い内《うち》に一度来て下さい。」
「じゃナポ公、さよなら!」
「御機嫌好《ごきげんよ》う、白のおじさん! さようなら、さようなら!」

        四

 その後《のち》の白はどうなったか?――それは一々話さずとも、いろいろの新聞に伝えられています。大《おお》かたどなたも御存じでしょう。度々《たびたび》危《あやう》い人命を救った、勇ましい一匹の黒犬のあるのを。また一時『義犬
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