《ぎけん》』と云う活動写真の流行したことを。あの黒犬こそ白だったのです。しかしまだ不幸にも御存じのない方《かた》があれば、どうか下《しも》に引用した新聞の記事を読んで下さい。
 東京日日新聞[#「東京日日新聞」はゴシック体]。昨十八日(五月)午前八時|四十分《しじっぷん》、奥羽線上《おううせんのぼ》り急行列車が田端駅《たばたえき》附近の踏切《ふみきり》を通過する際、踏切番人の過失に依《よ》り、田端一二三会社員|柴山鉄太郎《しばやまてつたろう》の長男|実彦《さねひこ》(四歳《しさい》)が列車の通る線路内に立ち入り、危く轢死《れきし》を遂《と》げようとした。その時|逞《たくま》しい黒犬が一匹、稲妻《いなずま》のように踏切へ飛びこみ、目前に迫《せま》った列車の車輪から、見事に実彦を救い出した。この勇敢なる黒犬は人々の立騒《たちさわ》いでいる間《あいだ》にどこかへ姿を隠したため、表彰《ひょうしょう》したいにもすることが出来ず、当局は大いに困っている。
 東京朝日新聞[#「東京朝日新聞」はゴシック体]。軽井沢《かるいざわ》に避暑中のアメリカ富豪エドワアド・バアクレエ氏の夫人はペルシア産の猫を寵愛《ちょうあい》している。すると最近同氏の別荘へ七尺余りの大蛇《だいじゃ》が現れ、ヴェランダにいる猫を呑もうとした。そこへ見慣《みな》れぬ黒犬が一匹、突然猫を救いに駈《か》けつけ、二十分に亘《わた》る奮闘の後《のち》、とうとうその大蛇を噛《か》み殺した。しかしこのけなげな犬はどこかへ姿を隠したため、夫人は五千|弗《ドル》の賞金を懸《か》け、犬の行方《ゆくえ》を求めている。
 国民新聞[#「国民新聞」はゴシック体]。日本アルプス横断中、一時|行方《ゆくえ》不明になった第一高等学校の生徒三名は七日《なのか》(八月)上高地《かみこうち》の温泉へ着した。一行は穂高山《ほたかやま》と槍《やり》ヶ岳《たけ》との間《あいだ》に途《みち》を失い、かつ過日の暴風雨に天幕《テント》糧食等を奪われたため、ほとんど死を覚悟していた。然《しか》るにどこからか黒犬が一匹、一行のさまよっていた渓谷《けいこく》に現れ、あたかも案内をするように、先へ立って歩き出した。一行はこの犬の後《あと》に従い、一日余り歩いた後《のち》、やっと上高地へ着することが出来た。しかし犬は目の下に温泉宿の屋根が見えると、一声《ひとこえ》嬉しそうに吠《ほ》えたきり、もう一度もと来た熊笹《くまざさ》の中へ姿を隠してしまったと云う。一行は皆この犬が来たのは神明《しんめい》の加護だと信じている。
 時事新報[#「時事新報」はゴシック体]。十三日(九月)名古屋市の大火は焼死者十余名に及んだが、横関《よこぜき》名古屋市長なども愛児を失おうとした一人である。令息|武矩《たけのり》(三歳)はいかなる家族の手落からか、猛火の中の二階に残され、すでに灰燼《かいじん》となろうとしたところを、一匹の黒犬のために啣《くわ》え出された。市長は今後名古屋市に限り、野犬|撲殺《ぼくさつ》を禁ずると云っている。
 読売新聞[#「読売新聞」はゴシック体]。小田原町《おだわらまち》城内公園に連日の人気を集めていた宮城《みやぎ》巡回動物園のシベリヤ産|大狼《おおおおかみ》は二十五日(十月)午後二時ごろ、突然|巌乗《がんじょう》な檻《おり》を破り、木戸番《きどばん》二名を負傷させた後《のち》、箱根《はこね》方面へ逸走《いっそう》した。小田原署はそのために非常動員を行い、全町に亘《わた》る警戒線を布《し》いた。すると午後四時半ごろ右の狼は十字町《じゅうじまち》に現れ、一匹の黒犬と噛《か》み合いを初めた。黒犬は悪戦|頗《すこぶ》る努め、ついに敵を噛み伏せるに至った。そこへ警戒中の巡査も駈《か》けつけ、直ちに狼を銃殺した。この狼はルプス・ジガンティクスと称し、最も兇猛《きょうもう》な種属であると云う。なお宮城動物園主は狼の銃殺を不当とし、小田原署長を相手どった告訴《こくそ》を起すといきまいている。等《とう》、等、等。

        五


 ある秋の真夜中です。体も心も疲れ切った白は主人の家へ帰って来ました。勿論《もちろん》お嬢さんや坊ちゃんはとうに床《とこ》へはいっています。いや、今は誰一人起きているものもありますまい。ひっそりした裏庭の芝生《しばふ》の上にも、ただ高い棕櫚《しゅろ》の木の梢《こずえ》に白い月が一輪浮んでいるだけです。白は昔の犬小屋の前に、露《つゆ》に濡《ぬ》れた体を休めました。それから寂しい月を相手に、こういう独語《ひとりごと》を始めました。
「お月様! お月様! わたしは黒君を見殺しにしました。わたしの体のまっ黒になったのも、大かたそのせいかと思っています。しかしわたしはお嬢さんや坊ちゃんにお別れ申してから、あらゆる危険と戦
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