って来ました。それは一つには何かの拍子《ひょうし》に煤《すす》よりも黒い体を見ると、臆病を恥《は》じる気が起ったからです。けれどもしまいには黒いのがいやさに、――この黒いわたしを殺したさに、あるいは火の中へ飛びこんだり、あるいはまた狼と戦ったりしました。が、不思議にもわたしの命はどんな強敵にも奪われません。死もわたしの顔を見ると、どこかへ逃げ去ってしまうのです。わたしはとうとう苦しさの余り、自殺しようと決心しました。ただ自殺をするにつけても、ただ一目《ひとめ》会いたいのは可愛がって下すった御主人です。勿論お嬢さんや坊ちゃんはあしたにもわたしの姿を見ると、きっとまた野良犬《のらいぬ》と思うでしょう。ことによれば坊ちゃんのバットに打ち殺されてしまうかも知れません。しかしそれでも本望です。お月様! お月様! わたしは御主人の顔を見るほかに、何も願うことはありません。そのため今夜ははるばるともう一度ここへ帰って来ました。どうか夜の明け次第、お嬢さんや坊ちゃんに会わして下さい。」
 白は独語《ひとりごと》を云い終ると、芝生《しばふ》に※[#「月+咢」、第3水準1−90−51]《あご》をさしのべたなり、いつかぐっすり寝入ってしまいました。

       ×          ×          ×

「驚いたわねえ、春夫さん。」
「どうしたんだろう? 姉さん。」
 白は小さい主人の声に、はっきりと目を開《ひら》きました。見ればお嬢さんや坊ちゃんは犬小屋の前に佇《たたず》んだまま、不思議そうに顔を見合せています。白は一度挙げた目をまた芝生の上へ伏せてしまいました。お嬢さんや坊ちゃんは白がまっ黒に変った時にも、やはり今のように驚いたものです。あの時の悲しさを考えると、――白は今では帰って来たことを後悔《こうかい》する気さえ起りました。するとその途端《とたん》です。坊ちゃんは突然飛び上ると、大声にこう叫びました。
「お父さん! お母さん! 白がまた帰って来ましたよ!」
 白が! 白は思わず飛び起きました。すると逃げるとでも思ったのでしょう。お嬢さんは両手を延ばしながら、しっかり白の頸《くび》を押えました。同時に白はお嬢さんの目へ、じっと彼の目を移しました。お嬢さんの目には黒い瞳にありありと犬小屋が映《うつ》っています。高い棕櫚《しゅろ》の木のかげになったクリイム色の犬小屋が、――そんなことは当然に違いありません。しかしその犬小屋の前には米粒《こめつぶ》ほどの小ささに、白い犬が一匹坐っているのです。清らかに、ほっそりと。――白はただ恍惚《こうこつ》とこの犬の姿に見入りました。
「あら、白は泣いているわよ。」
 お嬢さんは白を抱《だ》きしめたまま、坊ちゃんの顔を見上げました。坊ちゃんは――御覧なさい、坊ちゃんの威張《いば》っているのを!
「へっ、姉さんだって泣いている癖に!」
[#地から1字上げ](大正十二年七月)



底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
   1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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