るからです。しかし我々は犬の言葉を聞きわけることが出来ませんから、闇《やみ》の中を見通すことだの、かすかな匂《におい》を嗅《か》ぎ当てることだの、犬の教えてくれる芸は一つも覚えることが出来ません。)
「どこの犬とはどうしたのです? わたしですよ! 白ですよ!」
 けれどもお嬢さんは不相変《あいかわらず》気味悪そうに白を眺めています。
「お隣の黒の兄弟かしら?」
「黒の兄弟かも知れないね。」坊ちゃんもバットをおもちゃにしながら、考え深そうに答えました。
「こいつも体中《からだじゅう》まっ黒だから。」
 白は急に背中の毛が逆立《さかだ》つように感じました。まっ黒! そんなはずはありません。白はまだ子犬の時から、牛乳《ぎゅうにゅう》のように白かったのですから。しかし今前足を見ると、いや、――前足ばかりではありません。胸も、腹も、後足《あとあし》も、すらりと上品に延《の》びた尻尾《しっぽ》も、みんな鍋底《なべそこ》のようにまっ黒なのです。まっ黒! まっ黒! 白は気でも違ったように、飛び上ったり、跳《は》ね廻ったりしながら、一生懸命に吠《ほ》え立てました。
「あら、どうしましょう? 春夫さん。この犬はきっと狂犬《きょうけん》だわよ。」
 お嬢さんはそこに立ちすくんだなり、今にも泣きそうな声を出しました。しかし坊ちゃんは勇敢《ゆうかん》です。白はたちまち左の肩をぽかりとバットに打たれました。と思うと二度目のバットも頭の上へ飛んで来ます。白はその下をくぐるが早いか、元来《もとき》た方へ逃げ出しました。けれども今度はさっきのように、一町も二町も逃げ出しはしません。芝生《しばふ》のはずれには棕櫚《しゅろ》の木のかげに、クリイム色に塗《ぬ》った犬小屋があります。白は犬小屋の前へ来ると、小さい主人たちを振り返りました。
「お嬢さん! 坊ちゃん! わたしはあの白なのですよ。いくらまっ黒になっていても、やっぱりあの白なのですよ。」
 白の声は何とも云われぬ悲しさと怒りとに震《ふる》えていました。けれどもお嬢さんや坊ちゃんにはそう云う白の心もちも呑みこめるはずはありません。現にお嬢さんは憎《にく》らしそうに、
「まだあすこに吠《ほ》えているわ。ほんとうに図々《ずうずう》しい野良犬《のらいぬ》ね。」などと、地だんだを踏んでいるのです。坊ちゃんも、――坊ちゃんは小径《こみち》の砂利《じゃり》を拾うと、力一ぱい白へ投げつけました。
「畜生《ちくしょう》! まだ愚図愚図《ぐずぐず》しているな。これでもか? これでもか?」砂利は続けさまに飛んで来ました。中には白の耳のつけ根へ、血の滲《にじ》むくらい当ったのもあります。白はとうとう尻尾《しっぽ》を巻き、黒塀の外へぬけ出しました。黒塀の外には春の日の光に銀の粉《こな》を浴びた紋白蝶《もんしろちょう》が一羽、気楽そうにひらひら飛んでいます。
「ああ、きょうから宿無し犬になるのか?」
 白はため息を洩《も》らしたまま、しばらくはただ電柱の下にぼんやり空を眺めていました。

        三

 お嬢さんや坊ちゃんに逐《お》い出された白は東京中をうろうろ歩きました。しかしどこへどうしても、忘れることの出来ないのはまっ黒になった姿のことです。白は客の顔を映《うつ》している理髪店《りはつてん》の鏡を恐れました。雨上《あまあが》りの空を映している往来《おうらい》の水たまりを恐れました。往来の若葉を映している飾窓《かざりまど》の硝子《ガラス》を恐れました。いや、カフェのテエブルに黒ビイルを湛《たた》えているコップさえ、――けれどもそれが何になりましょう? あの自動車を御覧なさい。ええ、あの公園の外にとまった、大きい黒塗りの自動車です。漆《うるし》を光らせた自動車の車体は今こちらへ歩いて来る白の姿を映しました。――はっきりと、鏡のように。白の姿を映すものはあの客待の自動車のように、到るところにある訣《わけ》なのです。もしあれを見たとすれば、どんなに白は恐れるでしょう。それ、白の顔を御覧なさい。白は苦しそうに唸《うな》ったと思うと、たちまち公園の中へ駈《か》けこみました。
 公園の中には鈴懸《すずかけ》の若葉にかすかな風が渡っています。白は頭を垂《た》れたなり、木々の間を歩いて行きました。ここには幸い池のほかには、姿を映すものも見当りません。物音はただ白薔薇《しろばら》に群《むら》がる蜂《はち》の声が聞えるばかりです。白は平和な公園の空気に、しばらくは醜《みにく》い黒犬になった日ごろの悲しさも忘れていました。
 しかしそう云う幸福さえ五分と続いたかどうかわかりません。白はただ夢のように、ベンチの並《なら》んでいる路《みち》ばたへ出ました。するとその路の曲り角の向うにけたたましい犬の声が起ったのです。
「きゃん。きゃん。助けてくれえ!
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